消えゆく泡の価値

 ……ルージュ・シティへ帰った後、報告を聞いた美術館長は木像の回収を中止すると言い出した。天文局長からの助言があったというが、古代の貴重な遺産が失われていいというのか。
 一緒に行った同僚たちは僕の肩を持ってくれたが、何人かは反対派へ回った。あれはあの島に置いておくべき物かもしれない、と言って。どちらにせよ市の支援を得られなくては、あれだけの数の木像を保全することはできない。

 八方塞がりになった僕は、珍しく酒に溺れたい気分になった。


「領主に直訴するのは止めとけ。余計な頭痛のタネを作っちゃ駄目だ」

 偶然BARに居合わせた知り合いは、ぶっきらぼうにそう言った。仕立てのスーツを着て粋な雰囲気の男だが、元犯罪者だ。時間が早かったため他に客は居らず、静かな店内では僕らがカウンターに座っているだけである。

「今は地底遺跡の調査に力を入れなきゃいけないからな」
「ベルストさん。貴方も自分の目で見ればあの木像の価値が分かるはずです。あのまま失われて良いわけがない」
「島の住民はそう考えてないんだろ。だったら美術館にはレプリカでも作って置いておけばいいんじゃないか?」
「所詮貴方は贋作職人ですか」

 思わず罵倒してしまった、ちょうどその時。バーテンダーが彼の注文した酒を差し出した。ブランデーを注いだ小さなグラスに、輪切りにしたレモンで蓋をし、その上に砂糖を持った独特のスタイルだ。どうやって飲むのかと思っていたら、ベルスト氏はレモンを摘み上げると、小皿の上に砂糖を落とし始めた。

「ロッフォ。ショートスタイルのカクテルは冷えてるうちに飲み切るのがマナーだぞ」

 そう言われて、僕が頼んだカクテルがグラスに半分残っていることを思い出した。慌てて残りを飲み干すが、すでに一口目の美味しさは無くなっていた。オレンジのフルーティーさはあれど、ぬるくなったせでアルコールの強さが際立っている。
 ベルスト氏の方はレモンで砂糖を挟むように包み、口へ入れた。皮を外して果肉と砂糖を噛み締め、そこへブランデーを一気に放り込む。

 こういう飲み方をする酒もあるのか。興味はあるが、今うっかりぬるくしてしまったカクテルをもう一杯飲んでからにしよう。

「……マスター、さっきのと同じカクテルをもう一杯」
「かしこまりました」

 若いバーテンダーは穏やかに答え、再び酒のボトルを用意した。

「……マフリチェカと結婚してから、本物と偽物について未だにあれこれ考えている」

 ブランデーを飲み下したベルスト氏が呟いた。彼の贋作事件は街にセンセーショナルな話題を呼んだ。ただその贋作を売りつけた相手も相当な悪人で、しかもベルスト氏にとっては父親の仇だったというから、彼に同情する人も多い。
 僕もそうだ。褒められた人間ではないが、彼が美術界に投げかけた問題は無視できるものではないだろう。

「生前全く売れなかった画家の絵が、後世になって評価されるなんてザラだ。普遍的な本物、偽物なんて無いのかも知れない。見方の問題だ」

 ベルスト氏は淡々と語る。その言葉の意味を考えていると、不意にマラカスのような軽快な音が響いた。
 バーテンダーがシェイカーを振っている。おそらく僕のカクテルを作っているのだろうが、最初に頼んだときはグラスの中でかき混ぜていた。同じものを頼んだはずだが。

 銀色をしたシェイカーの表面が白く曇ってきた。今まであまり見たことはなかったが、振り方は僕が思っていたよりも複雑だった。
 やがて彼はシェイカーを置いてキャップを取り、中身をグラスに注いだ。先程と同じくオレンジ色の酒だ。ただ表面には泡が浮いている。

「勝手ながら作り方を変えてみました。ステアとはまた違った味わいを楽しんでいただけるかと」

 ……作り方を変えたと言っても、スプーンで混ぜるか振って混ぜるかだけの違いじゃないか。

 そう思いながら一口飲んで、驚いた。
 味がまろやかになっていたばかりか、舌触りまでなめらかになっていたのだ。先程はアルコールの刺激が強い味だったが、今度はフルーティーで格段に飲みやすい。クリーミーな味わいだ。

「これ、材料は同じなんですか?」
「ええ」

 バーテンダーは穏やかに笑った。乳製品など一切入れていないのに、このまろやかさは何なのか。

「泡ですよ。シェークするとお酒に気泡が混ざり、舌触りが良くなって味に丸みが出るのです」
「そこがバーマンの技術ってやつだ。このテオ・ベッカーは一流だぜ」

 ベルスト氏はタプナードのカナッペを摘んだ。
 バーテンダーなんて単に酒場で酒を出すだけの仕事、料理人のような高度な技術は必要ない……僕の根底にあった思い込みが崩れ去った。画家があらゆる絵具を用いて理想の色を作るように、彼らも酒を使って自分の芸術を作り上げる。

 グラス
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