昭和二十年 八月 佐世保近海
『瑞星』発動機が唸りを上げ、零式水上観測機は空を駆ける。南方でよく乗っていた機種だ。その後二式水上戦闘機、零戦、彗星へと機種転換したが、今になってこの複葉機との縁がまた巡って来るとは。吹きさらしの飛行機に乗るのは久しぶりで、体に受ける風圧が懐かしい。たまたますぐに飛ばせる機体がこれしか無かったので借用したが、米軍機に見つかれば命は無いだろう。
今や日本の空は俺たちのものではなくなった。だが俺は飛ばなくてはいけない。電信員席には誰も乗っておらず、旋回機銃が虚しく風に吹かれている。それでいいんだ、今更消えていく命は一つだけで十分だ。
そうしているうちに、空の中に小さな見つけた。複葉の翼、三つのフロート……同じ零観だ。
「見つけた! 鹿島少尉!」
古巣の佐世保で出会った、特攻隊員の若い少尉。階級は向こうが一つ上だが、兵学校を出たばかりのごく若い人だ。仲間と共に片道切符の攻撃へ向かい、発動機の不調で一人引き返してきた、謂わば『死に損ない』だ。
終戦の報を聞いた後、彼は徹底抗戦を叫んだ。厚木に合流して戦い続けるべきだ、と。
俺は必死で、止めるように説得した。日本人はこれ以上無駄死にしてはならない、と。本心から言ったわけじゃない、彼は俺より若いから死なせたくなかった。
だが少尉は飛び出してしまった。仲間たちの後を追うために。
「鹿島少尉! 引き返してください!」
聞こえないのは分かっていても、叫んでしまう。俺は燃料消費を無視して高速で飛んできたため、巡航速度で飛んでいる彼にも追いつけた。小さなシルエットが徐々に大きくなっていく。
だが少尉はこちらに気づかず、前だけを見続けている。くそ、周辺警戒もできない新米が敵艦と刺し違えるなんて十年早いぞ。仮に刺し違えたとして、それで終戦が取り消しになったらどうする?
日本は草木一本生えなくなるだろうが。
さらに接近する。まだ少尉はこちらを振り向かない。
さらに近く。敵なら撃墜できる距離だ。
左右のレバーを引き、二つの機銃に初弾を装填する。そして照準器を覗く。光像式照準器なら良いが、零観は旧式の望遠鏡型だ。狙いをつけている間は極端に視界が狭くなる。
少尉の機体の脇、ギリギリ当たらない辺りへ狙いを定める。スロットルレバーに左手をやり、引鉄を引いた。断続的な発射音と共に、機首の7.7mm機銃が火を吹いた。曳光弾の光と煙が相手の脇を掠めていく。
鹿島少尉がハッとこちらを振り返った。たまに撃たれても気づかない奴もいるが、この人はまだマシだったか。
「引き返せ! 鹿島少尉!」
大声で叫びつつ、身振り手振りで「引き返せ!」と伝える。少尉が首を横に振った。再び威嚇射撃をする。可能な限り凄まじい形相で。
これでも従わないなら本当に撃墜し、俺も海に突っ込んで死ぬ。終戦がご破算になるよりはマシなはずだ。
覚悟を決めていたとき、俺はふと後方を見た。何か音が聞こえたわけではない。戦闘機乗りの本能だ。誰も乗っていない電信員席と九二式旋回機銃の向こう、尾翼のさらに向こうに、小さな点が四つ見えた。
じっと凝視する。単発の戦闘機、折れ曲がった翼……まずい。
「逃げろ少尉! シコルスキーだ!」
後ろを指差して知らせようとする。俺が機銃を撃ったためか、少尉の顔にはいくらか恐怖の色があった。しかし米軍機には気づかず、俺がただ引き返せと繰り返しているように見えたらしい。
彼がやっとのことで気づいたとき、足の速い敵機はすでに間近まで迫っていた。
やるしかない。
「逃げてくださいよ、少尉!」
機を横転させ、急旋回。敵が編隊を解き、二手に別れた。
機首の長い、翼がW字型に折れ曲がった空冷エンジン機。米海軍または海兵隊のF4Uコルセアだ。全く、濃紺の機体に書かれた星の白さにまで腹が立つ。
はっきり言って勝ち目はない。零観の武装は7.7mm機銃二丁に対し、向こうは12.7mmを六丁も積んでいる。速度は少なくとも、こっちより200km/hは速い。零観が優っているのは小回りの良さだけ。
だがもう一つだけ有利な点がある。乗っているのがこの柴順之介ということだ。
せめて少尉が逃げ切るまで、時間を稼いでやる。それがここまで生き残ってきた俺の、軍人としての最後の義務だ。
「ガ島帰りを舐めんなよ!」
……その後、どうなったのかよく覚えていない。とにかく無我夢中だった。F4Uが攻撃してくるのは急旋回でかわし、背後を取れる。だが向こうの方が速いので撃てるのは一瞬だ。そして米軍機は頑丈だから、7.7mmの豆鉄砲では当てたところでなかなか墜ちない。そんなことを必死で繰り返し、突如近くに現れた雲へ苦し紛れに飛び込
[3]
次へ
[7]
TOP [9]
目次[0]
投票 [*]
感想[#]
メール登録