前編


 どこからともなく、良い香りがする。弦楽器の音色も微かに聞こえる。静かに柔らかな感触が後頭部にあたり、温かいクッションに身を横たえていた。とても気分が良い。何もかも投げ出して、このまま眠っていられればどれだけ幸せだろうか。
 その快楽を邪魔したのは空腹感だった。ひもじさが安らぎを上回り、ゆっくりと目を開ける。最初に見たのは、女の微笑だった。

「……あ、起きた?」

 のんびりした声で問いかけながら、彼女は俺の顔を覗き込んでくる。ジパングや霧の大陸に多そうな、エキゾチックな黒髪の女性だ。着ているのも、確か「キモノ」とかいう民族衣装で、赤い綺麗な生地である。やや童顔ながらも整った顔立ちで、可愛らしさのある美貌だ。
 滑らかな手で俺の頬を撫でながら、優しく微笑む。俺はどうやら、彼女の膝で眠っていたようだ。

「楽にしててええよ。……お腹空いてへん?」

 その問いに、即座に頷いてしまった。相手が何者かも分からないのに、その屈託のない笑みを疑うことができなかった。
 俺を膝枕したまま、彼女は手を叩いた。遠くから返事が聞こえ、足音が近づいてくる。部屋の戸は木の骨組みと紙でできており、やってきた小さな影が映っていた。子供のようだ。

「楓ちゃん。お客さん起きたから、お粥持ってきてな」
「かしこまりました」

 朗らかに答えて、子供の影は立ち上がり、踵を返す。そのシルエットには人間の子供にはない物が見受けられた。太い尻尾と、頭頂の耳だ。
 そして膝枕をしてくれている女も、人間ではなさそうだった。黒髪の合間から覗く耳が尖っていたのだ。亜人、または魔物の特徴である。他に異形の部位は見当たらないが、彼女もまた人外の存在なのである。

 この空間も不思議な場所だった。昔本で見た、ジパングの建築と似ている。植物を編み込んだらしき床にマットを敷き、俺はその上に寝かされていた。上から布団を被せられているが、どうも体は素っ裸だということに気づいた。ただ矢傷の場所に包帯が巻かれているのみだ。

「ここは、何処だ……?」

 恐る恐る尋ねてみると、その様子がおかしかったのか、女はくすっと笑った

「ここはね、『琴月庵』っていうお茶屋。琉雨珠の町支店ってとこやな」
「お茶屋……?」
「お茶のお店やのうてね。粋な人たちが、日の国……ジパングのお料理を食べて、女の子と遊ぶお店なんよ」

 あくまでも穏やかな声で、魔物の女は語る。要するに高級な娼館のようだ。ルージュ・シティがジパングと繋がりがあると聞いてはいる。だが兵士に投降したはずの俺が何故、こんな所にいるのだろうか。捕虜収容所ではなく、娼館などに。しかも俺の体は一切拘束されている様子はなく、傷の痛みも引いている。

「仲間たちはどうした? 俺をこれからどうするんだ? お前は……」
「いっぺんに色々聞かんといて。大丈夫やから」

 俺の頬を撫でながら、彼女はやんわりと窘めた。

「お友達もみんな無事や。でもなんか、お兄さんたちの他にも、教団の人たちが同士討ちで大勢怪我したんやって。寝かしておく所がなくなってもうたから、うちみたいなお店で何人か引き受けることになったんよ」

 その言葉を聞いて、しばし沈黙した。教団で禁じられている『殉教せず魔物の捕虜になる罪』を犯してしまったようだ。しかし周囲に兵士が警備しているわけでもなく、目の前にいるこの魔物もさほど強そうには見えない。魔物であることを除けば、単に高級娼婦をそのまま監視につけているだけとしか思えなかった。とても捕虜を拘束しておく環境ではない。

「あ、うちはね。つつじ、言うねん。よろしゅうな」

 親しげに名乗る、魔物の女。童顔で無邪気な中に、何処か色気のある笑顔だった。
 自分で降伏したとはいえ、魔物をホイホイと信用できるものではない。だが少なくとも、彼女は危険でないと判断していいかもしれない……が、不可解なことが多すぎる。

「俺が逃げ出すとは思わないのか?」
「せやから、うちがこうして見てるやん」

 つつじはことも無げに言った。本当にただの娼婦を見張りにつけたというのか。

「お兄さん、女の子に乱暴するような人とちゃうやろ。うちが見てれば大丈夫や」
「……相手が魔物なら、別かもしれないぞ」

 心の中を見透かされた気分になり、そう言い返した。するとつつじはじっと俺の顔を覗き込み、頭にそっと手を添える。膝の上から頭を下ろされ、床に敷かれたクッションへ後頭部が沈んだ。
 何をするのかと思っていると、彼女はゆっくりと俺の隣に移動する。そして布団の中へ左手を入れ、俺の体をまさぐってきた。

 心臓が大きく脈打つ。その白く、気品すら感じられる手が触れたのは俺の下半身。そこにあるモノは血が滾り、布団の中で怒張していた。
 女を、女と認識して。

「……魔物は別な
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