脳まで抱かれて

 恐怖。

 得体の知れない、恐怖。

 平原を歩く度に、息が詰まりそうな感覚に襲われた。魔界から一歩でも遠ざからねばならないのに、恐怖が体を縛り付けていく。手にするハルバートが重い。使い慣れている愛用の武器なのに、それを引きずるようにしながら僕は敗走していた。魔界への侵攻は失敗に終わった。精強を誇るレスカティエ教国の軍勢が、魔王軍の前に脆くも崩れさった。堕落した勇者の軍……裏切り者たちの前に。

 無様に敗走することができたのは僕一人。他はみんな今頃、貪り食われているのだろう。僕は少しずつ敵地から離れているのに、恐怖は強まるばかりだった。
 それが何かは分からない。だが魔物とは違う、もっと混沌とした何かが近づいている。そんな恐ろしさを感じていたのだ。僕の勘はよく当たる。恐ろしいことに、よく当たるのだ。


「……そんなに急いで、何処へ行くの?」


 ふいに聞こえてきた声。反射的に身構え、振り向く。ハルバートの柄をしっかり握り直し、切先を声の主へと向けた。

「ふふっ。そんなに恐い顔して……どうしたの?」

 そいつは僕を見つめて、小さく笑った。
 そいつは人間だった。人間の形をしていた。長い黒髪の美しい、何処か儚げな女。歳は僕より少し上、二十歳に達しないくらいだろうか。言葉には僕と同じ、レスカティエ人のアクセントが含まれている。紺色の装身具に身を包み、腰に吊っているのは聖剣……勇者の持つ武器だ。
 だがそれでも、僕は構えを解かなかった。勘が言っていた。こいつは敵なのだと。

 女はしばらく、僕のハルバートの切先を見つめたまま、動かなかった。だがやがて、聖剣の柄に手をかける。

「……ボクが遊んであげるよ。おいで」

 微笑みを浮かべて抜き放たれた剣は、油を塗ったかのような光沢を持っていた。繊細な装飾の施された柄を両手で握り、女は刃を水平に構える。どこまでも余裕の笑みを浮かべたまま。

 黒曜石のような、深い黒の瞳と目が合った瞬間。僕は恐怖に駆られた。闇をそのまま形にしたようなその瞳に、魂が吸い込まれるような感覚を覚えたのだ。
 その恐怖に、体が突き動かされた。

「うおおおおおッ!」

 雄叫びで恐怖を打ち消しながら、ハルバートを振り上げて吶喊。
 だがそれは悪手だった。使い慣れているとはいえ、ハルバートを上段に振り上げて打ちかかるには間合いが近かったのだ。僕が攻撃を繰り出す寸前、女はすっと僕の懐へ潜り込んできていた。ハルバートの間合いの内側へ。

 押当てるように、ゆっくりと剣を繰り出される。咄嗟にハルバートを構え直し、柄で刃を受け止めた。そのまま押し返しつつ、掌の中で柄を滑らせ、先端部付近を掴んで間合いを短くする。
 そのままフック部分で剣を引っかけ、押さえつけた。だが女が身を引くと、彼女の聖剣はするりと抜け出してしまった。

 再び柄を滑らせて間合いを伸ばし、横薙ぎを繰り出す。左右へ移動しながら、立て続けに。女はタイミングを合わせて後退し、避ける。反撃してくる様子はないが、僕の攻撃はかすりもしない。焦燥感が湧き立ってきた。
 それに対し、女の方は相変わらず微笑を浮かべていた。クスクスと妖しい笑い声を漏らしながら。

「……メルセに師事したんだね?」
「な……!」

 その言葉に心臓が飛び跳ねた。勇者メルセ。レスカティエ随一のハルバートの使い手で、勇者候補生の僕も指導を受けている。だが、何故そんなことが分かった……?

 刹那、甲高い音と共に、鋭い衝撃が手に伝わった。その途端に武器が軽くなる。
 それもそのはず。一瞬の内にハルバートの穂先を切り落とされていたのだ。重い金属の刃がどさりと地面に落ち、僕の手に残ったのはただの棒だった。

「間合いを詰められたら『雄牛の型』、反撃に転じるときは『聖ウィルギルスの型』……彼女の教範通りだ」

 剣をゆらゆらと揺らしながら、女は笑う。長い黒髪が風に靡いていた。
 やはりこいつはレスカティエの人間らしい。いや、『だった』のだろうか。この気配、この重圧はむしろ魔物に近い。だが先ほど戦ったような魔物たちとは違う。こいつはもっと、混沌とした何かを秘めているように思えた。

「ただ教わった戦い方をなぞるだけじゃダメだよ。もっと意表を突かなきゃ……」

 揺らめくような足取りで数歩、僕から放れる。聖剣を片手で持ち、肩越しに振りかぶった。

「……こんなふうに」

 女の右手が振り下ろされ、掌から聖剣がするりと抜け出す。銀色の刃が僕目がけて飛来した。

「くっ!」

 回転するそれを、柄だけになったハルバートで辛うじて叩き落す。手に重い衝撃が襲いかかった。だがそれだけではない。その瞬間、女の姿が消えていたのだ。

 背後に気配を感じた時にはもう、手遅れだった。
 二本の腕が背中から胸へと絡み付
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