病室の床には複雑な幾何学模様が描かれ、魔法陣を形成していた。その中心部に置かれたベッドで、マナはただ虚空を眺める。少し頬が痩けたとはいえ顔立ちは整っているし、不健康な容姿ではない。食べさせてやれば食事はできるし、夜が来れば目を閉ざして眠る。だが他に何も言葉を発することはなく、瞬き以外に動くこともない。ただ静かに息をして、何もない空間を見つめているだけだ。
小さな肩に、そっと手を置いた。彼女は何も言わないが、温かみのあることを確かめるたび、俺は少しだけ安堵する。
「……マナ」
名前を呼ぼうと、手を引こうと、呪いで幽閉された妹の魂には届かない。それでも、死んではいないのだ。
祖国では、妹の名は有名だ。魔物に捨て身の覚悟で挑み、勝利するも呪いを受けた悲劇の英雄として。司祭は盛んにマナの活躍と代償を喧伝し、国民の魔物への敵愾心を煽った。元々マナは勇者候補生として教育を受け、魔術の才能から将来を期待されていた。かつてのレスカティエの勇者たちを超える存在になり得ると云われていただけあり、プロパガンダとしての効果は大きかった。
一方俺は「猜疑心が強い」「加減を知らない」との理由で勇者候補から外され、下級騎士として匪賊征伐の現場へ送られた身だ。歴戦の一兵卒だの傭兵だのと苦楽を共にし、実戦の中で腕を磨いた。やがて己の腕でのし上がり中央へ戻った俺と、絵に描いたような優等生のマナとの関係はあまりよくなかった。勇者候補生時代に問題視されていた俺の性格は、戦場暮らしでさらに悪化していたのである。
だからマナが呪いを受けたときも、俺は教団の発表に裏があると疑い、司祭の周辺のまともそうな僧侶たちに問い質した。交渉は得意ではないが、まともな聖職者というのは後ろめたいことを隠すのが下手で、つついてやればすぐに動揺する。後は剣を使っての交渉で聞き出した。
マナにかけられた呪いは司祭が主催した魔術実験の事故によるもので、公式発表は司祭が責任逃れのためでっち上げた話である……と。
「妹さんの呪いは偶発的な事故によるものです」
魔女と名乗る少女が、見た目にそぐわぬ大人びた口調で言った。マナよりも大分年下に見えるが、これでもそれなりの年月を生きている魔物らしい。
「それ故、意図的にかけられたものと違い、術式を紐解くのに時間がかかります」
「時間をかければ解けるのか?」
俺の問いかけに、魔女はちらりとマナを見た。そしてゆっくりと、言葉を紡ぐ。
「落ち着いて聞いてください。我々の見解では、最も迅速かつ確実な方法は……魔物化による解呪です」
「魔物化……!?」
それがどういう意味かは分かる。魔物には人間を同族に変える力を持つ者がいるとは聞いていた。
「魔物は体に宿す魔力の種類が違うので、人間にかかる呪いは効きにくいのです。また魔物化する過程で肉体が作り替えられます。ベストなのはダークスライムになることですね」
「ダークスライム……メリッサのような?」
「はい。ダークスライムによる魔物化は人間の肉体をほぼ完全に融解し、再構成しますから。呪いが最も残りにくいかと」
淡々と説明され、俺はしばし考え込んだ。つい最近まで教団の教えの下で生きていたのに、魔物への嫌悪感や恐怖といったものはなくなっていた。メリッサの献身的な看護と、彼女の体の一部を食べさせられたせいだろう。あの淫らな奉仕も受け入れてしまい、教団で言う所の「魔に魅入られた愚者」になってしまった。
そのことに後悔はない。どの道離反した身だし、メリッサという女性の素晴らしさを知った。これからは魔物と……彼女と共に生きていくつもりだ。
だが妹を魔物に変えるということを、即座に受け入れることはできなかった。
「ご自分の意志で亡命なさったとはいえ、そうすぐには割り切れないかと思います」
俺の心中を察したかのように、魔女はそう言った。
「妹さんの呪いは命を奪うものではありませんから、時間はあります。この町の人たちを見て、よく考えた上でご決断なさってください」
「……ありがとう」
マナの髪をそっと撫で、俺は病室を後にした。
病院に務めている医者は人間も魔物もいて、メリッサのようなダークスライムばかりというわけではないようだ。ただし人間は男がほとんどで、人間の女らしい者は見かけられない。皆分け隔てなく平等に扱われているようだが、患者は種族ごとに分けて病室に入れられている。治療の効率化のためだろう。
病室を覗いてみると、やはり魔物はあまり病気にはかからないのか、患者は怪我人がほとんどだ。人間も怪我人の方が多い。しかもそいつらの目つきや気配などは兵士のそれであり、つまり戦傷者が大半を占めているようだ。教団との争いによるものだろう。
教団騎士の花形といえばやはり魔物と
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