入学初日の授業が終わり、僕は憂鬱な気分で下校の準備を始めていた。部活の見学に行く気にもなれず、とにかくさっさと校舎から立ち去りたい。
人間関係は出だしが肝心だというが、僕は高校に入学早々、その点で大きなしくじりをしてしまった。この高校は人魔共学であり、人間がほとんどだった僕の中学と比べ、遥かに魔物が多い。応援団長はセイレーン、剣道部にはリザードマンやデュラハンという具合に。こういう学校はもう珍しくないが、地方によっては未だに魔物への偏見があったりもする。僕は将来、そういう差別をなくしていく仕事をしたいと思っていた。
思っていたのに。
「はぁ……」
ポケットに突っ込んだままの左腕を眺め、僕は思わずため息を吐いた。小さい頃に使い物にならなくなった、この手が無性に憎い。
今日の昼休み、学食へ行くため廊下の角を曲がったときだった。反対側から歩いてきた……いや、這いずってきた女子と、至近距離でばったり目が合ったのだ。普通なら、だからどうした、という程度の話。だが僕は彼女を見た瞬間体が強張って、腰を抜かしてへたり込んでしまったのだ。
凛とした顔立ちの、サイドテールの女の子。だが側頭部で束ねられた髪の先端が、多数の蛇の頭になっていること、そしてスカートの裾から下の半身も蛇の体だったことに、反射的に恐怖感を抱いてしまった。彼女は驚いて僕に手を差し伸べたが、最低なことに僕はその手さえ振り払った。髪の蛇がこちらをじっと見つめているのが、とても怖くて。
そのメドゥーサは眉間に皺を寄せて僕を睨んだ。ただそれだけで、石にされたりはしなかった。しかし怒りの中に悲しみが滲んだような表情で、顔を背けて去っていく姿を思い出す度、心が痛む。僕は蛇だけは駄目だけど、女の子相手にあんな失礼なことをしてしまうなんて。
心無しか、他の魔物たちからの視線も痛い。そりゃそうだ、傍から見れば差別にしか見えないだろうし、噂も広まっているかもしれない。
これからどんなハイスクールライフを送る事になるのやら、先行き不安にも程がある。とりあえず今日はもう帰って宿題でもやるしかないが、家を離れて今は寮生活。学校と切り離されることがない。それでも校舎にいるよりいくらか気が楽だと思い、憂鬱さを鞄と一緒に抱えたまま玄関へ出た。
だが下駄箱を開けた瞬間、見慣れないものが目に入った。本当ならそこにあるのは僕のスニーカーだけのはずだが、小さなピンク色の紙切れが入っていたのだ。
「……なんだこれ?」
怪文書か何かかと思って手に取ると、そこには丁寧な字で一文が書かれているだけだった。
――『旧校舎の作法室に来てください。 成海』
誰だろうと僕は首を傾げた。確かクラスの女子に成海という人はいなかった気がする。誰かのイタズラかもしれないが、そういうのを仕掛けてくる人にも心当たりはない。
「……あの子か」
もしかして、と思うのはあのメドゥーサか、でなければその友達だ。昼間のことで何か言おうとしているのかもしれない。
そうだったとしたら、行って謝るしかないだろう。謝って許してもらえなくても少しは気が晴れる。向こうから会う機会を作ってくれたならむしろラッキーと思うべきだ。もちろん別人の可能性もあるが、そのときはそのとき。
僕は靴を履き、駆け足で玄関を出た。
この学校の旧校舎は一部が立ち入り禁止になっているだけで、概ね生徒が自由に出入りできるようになっているらしい。入ってみると古いコンクリートの建物ではあるが意外と奇麗で、窓から差し込む日がどこか懐かしい雰囲気を出していた。フリースペースとしても使われているようで、何人かで集会をしている先輩たちや、デートしている男女をちらほらと見かけた。そういう人たちに場所を尋ねながら歩いて行くと、掠れた文字の『作法室』の表札が目に入った。
ここで彼女が待っているなら、僕はまたあの『蛇』と対面することになる。蛇の姿を連想するだけで脚が震え、動かない左腕が痛む。だけどここでまた彼女から逃げれば一生後悔するだろう。
深呼吸を一回、二回と繰り返す。落ち着け、蛇がなんだ。左手を噛まれたのは何年も前のことじゃないか。それにメドゥーサは蛇じゃなくて、女の子なんだ……自分に言い聞かせた。
「よし」
意を決してドアを開けた。
作法室の内装がどうなっているかは知らなかったが、中を見た瞬間「学校にこんな部屋があるのか」と思った。旧校舎なので備品などは片付けられているようだが、色あせた畳みがちゃんとあり、入り口の反対側はボロくなった襖で仕切られている。完全な和室だった。やはりここで集会をやる人たちでもいるのか、畳みは隅の方を除きあまり埃をかぶっていない。
そしてその畳みの上には、誰もいなかった。
「沢渡くん?」
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