木々の合間から空を見上げると、雨雲が空を覆い始めていた。ここしばらく晴れの日が続いたので、農場の人たちも雨を待ち望んでいる。精霊や魔物の住む町ではそれほど水不足の心配はないが、やはり自然の雨があると農民は助かるのだ。
地図を取り出し、今いる場所に丸をつける。これでこの付近一帯の診察は完了、病気はなかった。
「いよいよ降ってきそうだな……」
僕は今しがた診察した木にもう一度手を触れた。ゆっくりと息を吐く。心が静まり返っていき、水の中にいるような気分になった。浮遊感とともに視界がゆっくりと暗転する。
微かに水の音が聞こえる。根から吸い上げたそれが太い幹へと伝わっていき、細かな枝まで巡っていく。やがて細かな水の粒として葉の裏から放出される。僕にはその様子が手に取るように分かった。そして蒸散量が普段より減っていることから、やはり雨が近いことも分かる。
もっと深くこの木と繋がれば、木の生い立ちも少しは知ることができる。ぼんやりとした不鮮明なものだが、そうやって森の過去を見るのも悪いものではない。これが持って生まれた僕の能力だ。
だが今はもうすぐ昼食の時間だろうし、ひとまず農場に戻ろう。呼吸を整え、木に一礼してからその場を去った。風に吹かれて葉がざわざわと鳴っている。
鼻先に水滴がぽつりと当たった。やはり降ってきたようだ。だが急いで帰ろうと思った矢先に、僕は気になるものを見つけてしまった。
「へぇ、これはなかなか……」
切り株というのは人の手の入った森には大抵あるもので、別に珍しくはない。だが一面びっしりと苔に覆われ、人間が数人乗ってダンスでもできそうな大きさというのはあまりないだろう。それが森の風景の中で何とも美しく、尊く見えた。
天気のことはこの際忘れることにして、僕はその切り株に駆け寄った。ふんわりと絨毯でもかけたように苔むしており、かなり古いものだと予想できる。この大きさでは相当な巨木だったはずで、切り倒すにも相当苦労しただろう。このルージュ・シティは新興都市だが、昔にもこの地に人がいたのかもしれない。
「ふーむ」
大抵の人は精々、風情があるというだけで済ませるものだろうが、僕はこの切り株に無性に惹き付けられていた。ここまで古いものとなると、もう中は腐って空洞になっているかもしれない。死んだ木はそうやって新たな命を育む養分となるのだ。
普通の樹医ならすでに命を終えた木を患者にはしないが、僕はこの切り株を「診察」してみたいと思った。何か放っておけないようなものを感じたのだ。
苔むした表面に手を置くと、ふわふわとしていて心地よい。目を閉じてゆっくり息を吐き、心を落ち着かせた。完全に死んだ枯れ木なら何も感じないが、生きている木なら僕に応えてくれるはずだ。
とくん、と小さな水の音がした。
地中から切り株の中に水が伝っている。極々わずかな音を立てて根が水を吸っていた。中身は腐ってなどいない。おぼろげではあるが命を感じる。
ここまで苔に覆われながらもまだ生きているなんて。しかもこれだけの大きさとなると、どれだけ昔からここにいたのか。
より深くまで潜る。木の記憶を辿れるくらいまで。木々のざわめきが聞こえ、うっすらと景色が見えてきた。太陽、雨、風、獣……。相当な昔から、この木はすでに切り株になっていたらしい。
さらに記憶を遡っていく。銀色の物が見えた。刃物……斧だ。そこからもっと過去へ行く。何か渦巻いた物が見える。これは何だ。どこかで見た覚えのあるものだ。霞んでいてよく見えないが、代わりに声が聞こえる。唸り声と、甲高い子供の声。
そして……
――貴方を待っていた――
「!」
ハッと目を開けると、雨が降り始めていた。記憶の海から這い上がり、呼吸を整える。
「今のは……?」
辺りを見回しても誰もいない。だが最後に聞こえた透き通るような声は頭にはっきりと残っている。木の記憶にしては鮮明すぎだ。それに何故そう思うかは自分でも分からないが、あの言葉は僕に向けて投げかけられたものだった。
切り株は相変わらず緑の苔に覆われ、雨に打たれている。こんな姿でも静かに生きているのは間違いない。それだけではなく、もしかしたら……。
「カルステン!」
ふいに名前を呼ばれ、駆け足で近づいてくる同僚に気づいた。同じ市営農場で働く友人だ。
「ああ、クルト」
「もうお昼だよ。雨も降ってきたし、一旦戻りなよ」
そう言う彼の体からは微かに血の臭いがした。家畜の解体を終えた後、僕を探しにきてくれたのだろう。切り株のことは気になるが、ここは彼の言う通りにすべきだ。雨具もなしに木を調べて、風邪などひいては仕方ない。
「そうするよ。悪いね、わざわざ」
「構わないって。診察は終わったかい?」
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