「畜生……畜生め……」
雨粒に打たれながら、俺はひたすら脚を前に運び続けていた。飛行服に、そして絹のマフラーにも染み込んだ雨は体温をどんどん奪って行く。後ろを振り向けば、砂浜に乗り上げた我が愛機の姿がある。だがそれを見てしまえば、もう前へ進む気力を失いそうな気がした。
豪雨の中を飛び続け、眼下に町らしきものを見つけ、ガチガチに冷えた手で必死に操縦桿を動かした。豪雨の中での着水というだけで危険なのに、バラスト代わりの後部座席搭乗員もいなかった。奇跡的に転覆せず、陸まで俺を運んでくれた愛機には感謝するべきだろう。だが俺はせめて、この先に見える小屋まで歩いて行かねばならない。古ぼけた木造の小屋だが、灯りが見えた。ここがどこか分からない以上、敵か味方かも分からないが、少なくとも人は住んでいる。
「俺ぁ……生きるんだ……」
うわ言のように呟き、何のためにだと自問する。俺が死んでも誰も困らないだろうに、何故こうまでして生きようとするのか。
考える力ももうない。薬も切れた。足を引きずり、俺をあざ笑うかのように降り続ける雨を憎み、前に進む。砂浜が砂利に変わり、少しずつ、本当に少しずつだが小屋が近づいてくる。
――今日の戦果はどうだったかな――
――どうせヒヨッコ共だ、駄目だったろう――
糞野郎共の言葉が脳裏に蘇ってきた。そうだ、誰のためでもない、自分の意地のために俺は生きてきたのだ……そう思ったとき、小屋の戸が目の前まで来ていた。まるで寝ながら歩き、辿り着いた瞬間目が覚めたかのようだ。
俺は本当に生きているのか。機体の所に肉体を置き忘れて、霊魂だけで歩いているのではないか。そもそも海に降りたつもりでも、実は三途の川だったのかもしれない。もう知ったことか、やるだけやった結果だし、何を思い残すことがある。
感覚のなくなった手を振り上げて、戸を叩く。二回、三回、さらにドンドンと続けて叩き続けると、扉が軋みながらゆっくりと開いた。その瞬間、ああ、やっぱり俺は死んでいるんだと思った。
ドアの隙間から覗いた住人の顔は人間とかけ離れていた。というより、子供の頃に紙芝居くらいでしか見たことのない生き物だった。血が流れているとは思えない青い肌、一つしかない大きな目。額から伸びる、岩のような一本角。人間の形をしてはいるが、どう見ても人間ではない、昔話の『鬼』がそこにいた。
「ふっ……」
途端に体から力が抜けた。踏ん張ろうとしても脚が言うことを聞かず、前につんのめる。だが地面まで倒れる前に、何か柔らかい物が俺を受け止めてくれた。一瞬、良い匂いがした。視線を上に向けると、鬼の一つ目が俺を見つめている。こいつに抱きとめられたらしい。
だが俺の顔に当たっている場所の柔らかさを、鈍くなった頭で考えて驚いた。その感触といい形といい、それは乳房そのものだったのだ。
「……女……?」
意識が朦朧としてきた俺を、鬼女は大きな胸と青い腕で抱きしめ、家の中へと導いた。引きずられるように家へ入れられたとき、視界がぼやけてくる。ああ、これから茹でて食われるのやら、閻魔の所へ連れて行かれるやら……そう思っていると、首のマフラーを剥ぎ取られた。
体が徐々に軽くなっていく。服を脱がされているのか。瞼が重くなり、素直に目を閉じる。
ぐっと抱き上げられ、横に寝かされた。この感触はハンモックか。少し間を置いて、肌に何か温かい物が接した。湯たんぽの類ではない、もっと柔らかくて、優しい温かさのものが、冷えきった俺の体に寄り添っている。
これは人の、それも女の肌だ。土砂降りの雨の中、吹きさらしの操縦席で飛び続けて冷えて凍えた体に、これほど有り難いぬくもりがあるか。
眠気が襲ってくる。最後の力を振り絞り、うっすらと目を開ける。そこにはあの大きな一つ目が間近にあった。
「ああ……」
漁村では海に落ちた漁師を温めるのに、若い女の肌を使うという。鬼女は何も言わず、その青い肌を俺に密着させ、その上に毛布をかけた。血の気のなさそうな色なのに、温かみがじわっと広がってくる。
体がすーっと楽になり、そしてまどろんでくる。考えるのは止めにした。もうどうにでもなれ。
目を閉じた瞼の裏に、一つ目の残像が焼き付いていた……
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