一枚目のキャンパス

 月と魔力灯に照らされた町の中を、大勢の住民が歩いていた。身を寄せ合って歩く男女もいれば、酔っ払って鼻歌を歌いながら歩く奴もいる。粋な身だしなみをしている奴もいれば、いかにも労働者という格好の者もいる。女に至っては下半身が蛇だったり蜘蛛だったり、人間に近くても羽が生えているわ鱗がついているわで、千差万別だ。このルージュ・シティという町は見ていても飽きないし、絵の題材にするにしてもこれほど面白い風景はなかなかないだろう。
 だが今の俺はスケッチブックを脇に抱えたまま、目当ての酒場のドアを潜るところだ。まだ建物は新しいが、渋い雰囲気の滲み出る粋な店だった。

 『BARベッカー』と書かれた看板をちらりと眺め、ドアを開ける。目に入った光景は分厚い木製のカウンター、椅子に腰掛ける先客たち。魅力的な酒類の数々に、それらを背に立つバーテンダーだった。

「いらっしゃいませ、ヴァン・クーベルマン様」

 この店の主、テオ・ベッカーは静かな声で挨拶してきた。俺の友人であり、恩人でもある男だ。
 俺は店内を一望し、壁にかかったダーツの的や客の顔ぶれを眺めつつ、カウンターの椅子に座った。

「良い店じゃないか、テオ」
「お気に召したようで恐縮です」

 テオは若いながらもプロの風格漂う紳士的な男だった。そのため店内も落ち着いていて、静かに酒が飲める良い雰囲気だ。女を口説く場所にもいいだろう。
 彼が俺を領主に紹介してくれたお陰で、俺は仕事にありつけたというわけだ。

「お前には感謝しているよ。当分はこの町で食っていけそうだ」
「いえ。ここは貴方のような方が、力を活かすための町でもありますから。……ご注文は?」

 俺はちらりと棚を見て、並んでいる瓶から好物の銘柄を見つけ出した。反魔物領で作られている酒だが、聞くところによると闇ルートで魔界にも流れているらしい。好きな酒が魔界でも飲めるというのは亡命者としてありがたい話だ。
 続いて、カウンターに置いてあるメニューに目をやった。つまみや軽食の名前と値段が書かれており、種類も豊富だ。

「パリーウェルの新酒をシングルで。あとタプナードのカナッペも頼む。緑のな」
「かしこまりました」

 テオが背後にあるドアを開け、タプナード一つと伝えると、中で料理をしていた女の子が明るく返事をした。テオと同じバーテンダーらしい服装だが、せいぜい十代前半程度の子供だった。翼や角が見えたからサキュバスの仲間だと分かった。他の客はその子が作ったと思われるつまみを食べていたが、料理はしっかりとできているようだ。

「お前の妹分か?」
「姉貴分です。彼女の方が年上なんですよ。ポローヴェの料理学校を卒業しています」

 気恥ずかしそうにテオは笑う。子供の姿のままの魔物もいると聞いたが、要はそういう種類なのだろう。面白い話だ。
 テオは手際よく酒を注ぎ、グラスを俺の前に置いた。甘味のあるアルコールの香りが鼻をくすぐる。酒というのはこの繊細な香りがたまらないのだ。一口飲み、舌にまとわりつく味わいと喉越しを楽しむ。好みは人それぞれだが、俺は濃厚な味わいの酒が好きだ。

「しかしまあ、この町の地下に本当に遺跡があるとはな」
「ええ。僕も領主様から聞いたときには驚きました」

 テオはそう言って、グラスの空いた客に次の注文を訊きに行った。なかなか繁盛しているようだ。

 このルージュ・シティは元々廃墟だった町を、ヴァンパイアの領主が再建したものだ。人間も魔物も隔たりなく、共に発展を目指す『人魔共栄』を掲げる町で、現に種族を問わず様々な人々が住んでいる。だがかつて廃墟になるより遥か昔、この土地の地下にも町があったという。地面をくり抜いて作られた、大きな都市だそうだ。今では遺跡と化し、一般人は入ることができないものの、本格調査に向けて発掘隊が結成されることとなった。
 俺はテオの紹介で、記録班として発掘隊に参加することになった。遺跡の様子などをスケッチして記録する係だ。埃っぽいもののロマンはあるし、人生の再出発には悪くない仕事だろう。俺が今まで犯した罪は消えないし後悔もしていないが、そろそろ生き方を改めてもいい頃だ。

「タプナード、お待たせしましたー」

 料理をしていた女の子が、カナッペの乗った皿を持ってきた。テオとお揃いの作業着を着て、背伸びしながらカウンターに皿を置く。一つ食べてみると、緑オリーブをベースにしたタプナードの芳醇な味わいが口の中に広がった。

「うん、美味いね」
「ありがとうございますっ」

 可愛らしく微笑み、彼女は台所へ戻っていった。同時に手の空いたテオが、俺のスケッチブックに目をやった。

「スケッチの調子は如何ですか?」
「昼間に町の風景を描いたよ」

 スケッチブックをめくり、最もよく描けた一枚をテオに見せる。
[3]次へ
ページ移動[1 2 3 4 5]
[7]TOP [9]目次
[0]投票 [*]感想[#]メール登録
まろやか投稿小説ぐれーと Ver2.33