前編

 油の臭いが漂う狭苦しい空間で、俺はディーゼルエンジンの音に耳を傾けていた。エンジンや電気系統だけは新しい物なので、けたたましい音を立てながら快調に作動している。かつてこの操縦席に座っていたのはどんな人だったのか、今となっては知る術もない。できることならすぐにでも二本の操縦レバーを握って走り出したいが、今日はあくまでもエンジンの試運転。走行は明日だ。

 左に目をやり、覗き窓の装甲ハッチを開けた。カチッという金属音がして、僅かな視界だが風景が見える。工業科の同級生たちと先生が試運転を見守っていた。人間もいれば魔物もいるが、皆着ているのは油の着いた作業着だ。
 この高校に入って機械工学を学んで、俺の子供染みた夢を手助けしてくれる仲間も見つけることができた。せっかく人魔共学の学校なのに恋愛の一つもしていなかったが、これはこれで充実した高校生活だったと思う。だが。

「……あなただけが、いない」

 後ろを振り向けば、一人分の空間がぽっかりと空いている。その後ろは壁を隔ててエンジンルームだ。この空間にいるはずだった人……俺の「隊長」はもういない。
 車内の何もない場所が、俺自身の心を表しているかのようだった。












………








……


















「じゃあな新平、お前も早く帰れよ」
「おう、お疲れ様」
「あたしにも操縦させろよ新平! 約束だぞ!」
「分かってるって」

 試運転が終わったとき、もうすっかり日は落ちていた。このプロジェクトの主導者である俺を残し、仲間達は帰って行く。工業科というと男が多そうなイメージだが、ドワーフやサイクロプスのような魔物もそれなりにいる。意外なところではスキュラも工業の道へ進むことが多い。八本の脚で一度に沢山の工具を扱えるからだ。とにかくそういうわけなので、俺のように機械のことばかり考えている男は少ない。現に今、みんな男女で手を繋いで車庫から去っていく。

 俺は改めて「宝物」を眺めた。薄いとはいえ装甲を持ち、キャタピラで走り、小型ながらも砲塔を積んでいる。軽自動車サイズの車体は無骨で、肝心の主砲もたかが三十七ミリ。お世辞にもスタイリッシュとはいえないが、それでも歳月を経て現代に蘇ったこいつを見ると、たまらない興奮がわき起こる。
 九七式軽装甲車『テケ』。豆戦車やタンケッテなどと呼ばれる、二人乗りの小型戦車だ。

「浦和くん、いよいよ明日ね」

 まだ車庫に残っていた矢巻さんが、静かな声で言った。手についた油をウエス(布切れ)で拭き取りながら、感慨深げにテケ車を眺めている。

「ああ。長かったよ、本当に。矢巻さんにはいろいろ助けてもらったなぁ」
「ううん。役に立てて嬉しいわよ」

 手を振りながら笑う彼女は、人魔共学のこの学校では珍しい人間の女だ。珍しいと言ってもあくまで比率の話で、こういうタイプの女子はそれなりにいる。魔物化が嫌な訳ではなく、ただ成り行きで人間として生まれ、成り行きで人間として生きているタイプだ。
 そんな矢巻さんの特徴は何かと言えば、地味なのが特徴ということになるだろう。顔は可愛い部類に入るが華やかな感じは一切なく、気がつけばそこにいるような人だ。だがこのテケ車のレストア(修復)に関しては俺の次くらいに熱意を持っていたように思える。

「高校生の私たちが戦時中の乗り物を直しちゃうなんて、凄いことよね」
「本当だよな。小学校時代からの目標が達成できた」

 俺が工業科に入ったのは当然、小学生の頃見つけたテケ車を直すためだ。夢が叶うのはもっと先だと思っていたのに、ある日先生に打ち明けたことがきっかけで、いつの間にかクラスメイトたちと一緒にレストアに取りかかっていた。

 道のりは長かった。まずエンジンを修理するのはほぼ不可能だったため、新しいエンジン探しから始まった。電気系統も新品のものに変えた。
 そして主砲だ。撃てるかどうか怪しい骨董品とはいえ、動かせるようにするのに本物の大砲を積んでおくわけにはいかなかった。今テケ車に搭載されているのは矢巻さんが作ったダミー砲身なのだ。木を削って作ったものだがなかなかの出来で、よほど近くで見ない限り偽物とは気づかないだろう。

 他にも駆動系だのキャタピラだの塗装だの、数えきれない苦労をしたが、みんなでワイワイガヤガヤやっているうちに乗り越えた。

「本当に矢巻さんや……みんなのお陰だよ」

 テケ車の装甲板に、そっと手を触れる。冷たい鋼の感触だ。
 これを見つけてから十年。俺はもう「隊長」と同じ高校三年生だ。彼女は大人に見えたが、実際高校生になってみるとまだまだ自分が子供のような気がしてくる。つまり「隊長」は子供のうちに生涯を終えてしまったことになるのだろうか。どの道長くない命だったのかもし
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