前編

 人間の性は善であるとも悪であるともいう。奴らを監視するのが仕事である私たちカラステングは永きに渡り、その両面を見つめてきた。だが今や妖と人の距離が縮まった混沌の時世、空から見下ろしているだけでは俗界の善悪など分かりはしない。
 故にこの深山院 律は黒垣藩の同心として、俗人と同じ視線でそれらを見て回る。藩主こそ人間なれどその妻は龍、家老は稲荷というこの藩でならカラステングが公職に就いても不思議はない。私のような若輩者には丁度良い修行なのだ。あまり庶民を威圧してはよくないので人間の姿を借り、神通力もホイホイ使うなと申し渡されているので武術も修めた。巷では麗しき女武芸者として通っていることであろう。

 今日もいつものように町を見回る。ことにこの西町は十年前に忘れがたい惨劇が起きた場所。今では賑わいを取り戻しているものの、あれが二度と起こらないようにするのが私の役目だ。鋳物屋だの研屋だのが軒を連ね、棒手振りたち様々な物を陽気に売歩くこの光景……山で修行していた私には彼らの営みが眩しく思える。私の力は彼らを守るために使わねば。

「ふらふら歩くな、糞ガキが!」

 志を再確認したと思ったら、下品かつ乱暴な言葉が私の耳を汚しやがった。振り向いてみると、そこには絵に描いたように人相の悪い浪人、そして地に倒れた少年がいた。少年はよく見かける棒手振りで、近くに天秤棒と桶がひっくり返り、売り物の饅頭が散らばっている。浪人の方は訛りからして流れ者のようだが、おそらくこいつが少年にぶつかったか蹴倒したのだろう。毎日商売をしている棒手振りがそう簡単に通行人に突っ込むはずがない。
 売り物が台無しになって泣き出す少年、ざわめく町人たちを無視し、浪人はずかずかと歩き去ろうとする。

「自分からぶつかったくせに……」
「どこの流れ者だよ……」

 近くで見ていた商人二人が小声で話すのを聞き、私は浪人が悪であることを確信した。このような現場を見た今、やることは一つ。




 悪・即・斬。




 ……いや、それはさすがに不味い。いくら魔界銀製の刀でもいきなり斬るわけにはいかないだろう。一先ずは十手で頭をドツいておこう。そこから先は後で考えればいい。

「……む?」

 だが私が十手の柄を掴んだ瞬間、スリの男が浪人に近づくのに気づいた。一目でスリだと見破ったのは私の鋭い観察眼による……わけではない。黒垣のスリ師はスリだと分かる格好をしているのだ。
 具体的に言うと肩に木綿の手ぬぐいをかけ、紺の筒長の足袋に雪駄を履いた奴は十中八九スリだ。そういう分かりやすい格好をしながらも役人の目を盗み、人の財布を狙うことを粋だと思っているクソバカタレ共である。
 並の役人の目はごまかせても、この深山院律は節穴ではない。私はクソバカタレがクソ浪人の懐にすっと手を入れ、財布を抜き取るのをしっかりと見た。浪人に向かってザマアミロと大声で叫びたくなる気持ちを抑え、スリの男を目で追った。いくら悪い奴相手でも、人の懐を狙う行為は許せない。立場上。

 だがその男はその財布を自分の懐へ収めなかった。それどころか未だに泣いている饅頭売りの少年に歩み寄り、彼の懐へ押し込んだのだ。

「弁償するってさ」

 微笑と共に小さく囁いたその言葉を、私の耳は確かに聞き取った。そのスリの表情にはしっかりと慈愛の色がある。ヘタな堅気の人間よりもしっかりとした、思いやりの眼差しが感じられたのだ。
 私の頭は一体どうしてしまったのか。こいつはスリだ、悪だ、犯罪者だ。それらを成敗するのが我ら天狗の生業だというのに。何故こんなスリ師ごときがかっこよく、粋に見えてしまうのだろうか。心が揺れる。揺さぶられる。

 私はこの悪党をどうすればいい?
 こいつは本当に悪人なのか? 
 いや、悪だ。悪に決まっている。それなのにどうすればいいか分からない。

 まさかこの私が、カラステングの本分を忘れかけているのか……?

「喝!」

 叫ぶと同時に、自分の顔面を思い切り殴った。痛みが鼻を通って頭蓋を割らんばかりに突き抜ける。痛みで迷いが吹き飛んだ。徐々に頭の中がすっきりしていく。何かに迷った時はコレに限るな。
 吹き出た鼻血を拭っていると、スリ師がじっと私の方を見ていた。何か不気味な物を見るような目つき……失礼な奴だ。

「おい、大丈夫か? 主に頭が」

 切れ長の目を細めて問いかけてくるスリ。よく見るとなかなかいい男だ。堅気であれば、だが。

「貴方のような下郎に心配される筋合いは無いわ」
「……そうかい。あばよ、鼻血女」

 鼻血女。そう呼ばれた瞬間、私の中で何かが切れた。

 さっと踵を返して歩き去るスリの後を無意識のうちに尾行し始める。神通力で気配を絶てば存在感は空気と同じくらい虚ろになった。スリ師は時々後ろを振
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