爛漫

「……う」

 頭がぐらつき、体が痛む。木から飛び降りたときの要領でなんとか受け身はとれたものの、穴の底へ叩き付けられた衝撃はかなりのものだった。地面がぬかるんでいたおかげで骨折はしていないことが不幸中の幸いだ。
 痛みをこらえながら身を起こして、頭上を見上げる。僕の落ちてきた穴は遥か上だ。おそらく古い枯れ井戸に土が詰まっていて、それを偶然踏み抜いてしまったのだろう。あの傭兵もさすがにこの中まで追ってくる気はないようだけど、安心してはいられない。応援を呼んで井戸の中を調べようとするはずだ。

 夜目の利く僕はこの暗がりでもある程度物は見える。周囲を見回してみると、土と岩の壁が見えた。そして一部分に人がなんとか入れる程度の穴があることにも気づいた。近づいてみると奥まで続いていそうな横穴で、しかも風が通ってきている。

 一瞬だけ、その風に乗って甘い香りが漂ってきた。花のような、うっすらとした微かなものだが、泥のニオイしかしない井戸底でははっきりと感じられた。

「何だ、今のは……」

 すぐに消えてしまった香りに、何故か故郷の森の風景が頭をよぎった。木々に覆われた僕らの楽園が、家族全員が笑って暮らしていた記憶が蘇ってくる。父さんと一緒に狩りに出かけ、鹿を仕留めて、家族みんなで食べた他愛もない日常が、色鮮やかに……

「ッ!」

 頭を振って幻想を振り払う。良い思い出であっても今の僕に取っては苦痛でしかない。森が焼かれた今、もうあの頃へは戻れないのだから。
 とにかく風が来ているということは地上へ通じているということだ。といってもこれが活路かどうかはまだ分からない。どこへ通じているか分かったものじゃないし、もし敵がこの横穴のことを知っていれば待ち伏せされて一貫の終わりだ。

 それでもここでじっとしているよりはマシだろう。僕は足を踏み出した。穴の中は意外と足場がしっかりしており、転ぶ心配はなさそうだ。手で壁を探りながらゆっくりと歩いて行く。

 ……こうやって僕はどこまで逃げ続けるのだろうか。それともこの町で終わるのだろうか。そんなことを考えてしまう。
 僕の故郷の森は人間に焼かれた。何を勘違いしたのか、教団のバカが魔物の掃討だと言って森を焼き討ちしたのだ。魔物になった仲間たちが追放され弱体化していた僕らに、完全武装した教団の騎士団を止める手だてはなかった。故郷も家族も、みんな失った。だから僕はみんなの仇を討とうと……それなのに。

「畜生め!」

 歩きながら岩壁を殴りつける。拳の痛みももうどうでもよくなってきた。結局、僕はひたすら脚を前に運んで逃げ続けるだけの存在で、もう森の戦士なんかじゃない。あの傭兵にあっさり負けたのも当然だ。人間なんかに気を当てられてしまうなんて。
 あいつはこの町でどんな人生を歩んでいるのだろう。恐ろしい奴だった。だけど僕と似た過去を送ってきたのかもしれないと、なんとなく思う。いや、僕とは比べ物にならないほど多くの人間を殺しただろうし、凄まじい業を背負っているはずだ。そんな奴でもここでは受け入れられるのか……

「……うっ」

 またもやあの匂いだ。しかも今度は一瞬香ってきただけでなく、絶えず漂ってきている。甘く、懐かしい匂いが。
 脚を進めるごとに、それは濃厚になっていく。何かの花か、あるいは蜜のような優しい香りだった。嗅いでいると安心し、それでいて胸の高鳴る。同時に故郷の森の風景が心に浮かんでくる。

 僕の脚は次第に早まっていった。さっきまでと比べると不思議なくらい体が軽い。まるで匂いに誘われているかのように洞窟を進んでいる。いや、もしかしたら……認めたくはないけど、操られているのかもしれない。
 危機感を覚えても、脚は止まってくれなかった。呼吸のリズムもゆっくりと吸うようになり、無意識のうちに香りを求めていた。

「はぁ……はぁ……はぁ……」

 駄目だという思いと幸せな感情がごちゃ混ぜになっていく。抗うこともできず、ひたすら脚を前に運び続ける。ごつごつした岩肌を手で探りながら、匂いを求めとにかく進んだ。

 やがて岩壁とぶつかったが、それはただの曲がり角だった。曲がった先には光が見えて、僕の心を高ぶらせた。あそこに匂いの根源がある……僕はそれを確信していても、自分の意志でそこへ向かっているのではない。その甘さに引っ張られるように、無我夢中で歩いていた。

 出口付近で苔に脚を滑らせながら、僕はとうとう洞窟を抜けた。
 僕らの目は人間よりも暗さ・明るさに早く慣れる。闇の洞窟を抜けた先は太陽光が降り注ぐ、大きな穴の底だった。先ほどの井戸底よりいくらか地表には近いが、地面が陥没したらしい窪みは巨大で、僅かに水が溜まっている。光も十分にあるため草も生い茂り、足下ではカエルが飛び跳ねていた。

 そして
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