その像は石か、愛欲か

 戦場。
 そこは戦場だった。倒れ伏す戦友、潰走する戦友、魔物に押し倒される戦友……そして魔物に変ずる戦友。

 地獄。いや、生き地獄か。誰も死ぬことは許されないのだから。

 平凡な石工だった私が徴兵され、何故こんな戦いに送り込まれたのかは分からない。だが戦友たちがどうなろうと、私にはどうでもよかった。

 私の視線を釘付けにして離さないのは、その地獄に降り立った一人の妖魔。

 白い肌。
 白い髪。
 白い翼。
 それと相反するかのように、赤く、妖しく煌めく瞳。

 優雅な肢体もある。柔らかそうな肌もある。全てを跪かせるような妖しい笑顔も。
 だが私はこんな女性が……こんな生き物がいるなどと信じられなかった。

 私は思った。「あれ」は闇なのだと。
 深い闇を切り抜いて、美女の姿に彫刻したものだ。闇だからこそ全てを、人の心さえも吸い込んでしまうのだ。


 あのとき私は逃げてきた騎兵に蹴られ失神し、戦友に引きずられて戦場から逃げ延びた。いや、逃げ延びてしまったと言うべきか。
 戦場から帰還し、石工に戻った私を待っていたのは甘い苦痛の日々だった。目を閉じれば瞼の裏に、あの赤い瞳が浮かび上がってくる。誘うような妖しい笑みと共に。眠りについたときも毎晩彼女が夢に現れ、私を闇に引き込もうとする。だがどれだけそれに従おうとしても、どれだけ彼女の手を取ろうとしても、所詮は幻。夜明けとともにかき消される空しい夢でしかなかった。

 あの戦場で何らかの魔物の餌食になっていればそれで諦めがついたかもしれない。だが逃げ延びてしまったはあのお方のことしか考えられなくなっていた。
 しかし私に何ができる? 私は石工だ。ただの石工。

 あのお方に近づくことは不可能だ。

 ならば……






 気づいたときには、私は鑿を取っていた……


















………








……























「……これで七十七体、か」

 掘り終わった頭像を眺め、私は嘆息した。ここ数年は「あのお方」の石像ばかりを彫り続け、違うモチーフを彫ったことがない。家の中には今まで彫った石像が散乱しており、みんな私に笑みを向けているが、どれ一つとして満足のいく物はない。
 今しがた出来上がった頭像に顔を近づけ、そっと口づけをする。彼女はそれを笑顔で受け入れてくれるが、所詮ただの冷たい石でしかなかった。頭像や胸像だけでなく、全身を彫ったものも多数ある。静かに佇む姿、座して体を見せつけ誘うような姿、背の翼を広げて今まさに飛び立とうとしている姿……全てに心血を注いで彫ってきたが、脳裏に焼き付いた「あのお方」の姿は表せていない。豊かな体つきも整った顔立ちも、人間にはない角や翼も申し分無く作れているとは思う。
 だがそこには闇が、心を引きずり込む魔性が宿っていないのだ。どの石像の視線も私をかき立てることはない、ただ冷たい石の眼でしかなかった。

「だが……次こそは……」

 鑿を砥石にかけながら、私は次に彫る石に思いを馳せていた。私の技が十分な物であれば石の問題かもしれないと思っていた矢先、ある女商人が私に話を持ちかけてきたのだ。
 魔界の奥地で発掘された石があるのだが、目立つから教団のいる町には売れない。よかったら買ってくれないか……と。
 私は「あのお方」の姿を彫ることに生涯を捧げると誓い、教団の手の届かない山奥へ居を構えている。商人にしてみれば安心して売れる相手なのだろう。魔界とはつまり「あのお方」が生まれた場所でもある。そこで生まれたという石に私は希望を見出し、商談は成立した。

 その石が届くのは今日。楽しみで楽しみで、鑿を研ぐ手にも力がこもる。リズミカルな摩擦音が工房内に響き、もの言わぬ石像たちだけがそれを聞いていた。

 ふいに、戸を叩く音がする。風の音ではない、明らかに人の拳が腐りかけた木戸を叩いていた。

「……どちら様ですか?」

 逸る心を抑えつつ、手を止めて返事をする。万一に備え、壁に立てかけてある手斧を手に取った。

「駒井やでー。例のブツを納品に来たんやけど?」

 それを聞いてすぐさまドアの閂を開ける。錆び付いた金属の引っかかりがもどかしく、ガチャガチャと音を立てながらやっとの思いでドアを開けた。外から山の空気が室内に吹き込み、淀んでいた空間が清められて行く。日の光りを妙に懐かしく思うのと同時に、その光溢れる世界がすでに私の居場所でないことを感じた。魔に見入られた私にとっては。
 その日差しの中に立っているのは一人の女商人の駒井。東の国の服を着た女の子だ。そしてその背後に置かれた巨大な物こそ、俺が待ち望んでいた石なのだろう。

「やあやあ、お待たせして……うわぁっ!?」

 彼女が驚愕の叫びを上
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