それは、ある日の朝。そして、ある意味でいつも通りの朝。
「今日はお店お休み〜」
そう言いながら彼女は寝台の上を転がる。その様子は、外見だけなら駄々を捏ねる子供だ。
朝食の準備を済まし、彼女を起こしに来たカイは軽い溜め息を吐く。
「で? 今日はどんな理由ですか?」
問いに対し、彼女は視線を泳がし、果ては顔を背ける。
「ん〜っと…」
「さて、今日もお仕事、頑張りましょう」
悩みだすエルメリアに、カイは有無を言わさず布団を取り上げた。そのまま彼女の抗議の声をにこやかに、しかし涼しげに受け流して二階に下りる。
「早く下りてきてくださいね」
後ろに振り向き念を押した時、エルメリアは抱き締める枕に顎を乗せ、頬を膨らませていた。
カイはエルメリアの年齢を知らない。外見や体付きのみならず、振る舞いや口調も幼げな彼女だが、知識量や技術などから見た目通りの年齢ではないことは想像に難くない。彼は一度だけ彼女と出会って間もない頃に歳を聞いたことがあるが、実に晴れやかな笑顔でたしなめられている。怒気も殺気も含まない、天真爛漫とさえ言える笑顔に、彼は底知れぬ恐怖を感じていた。以後、彼は女性の歳を詮索しようと思ったことはない。
「もう、カイ君のいじわる〜」
三階から下りてくるエルメリアが不貞腐れたように言うが、風呂に入り軽く身支度を整えていたので、今日はとりあえず仕事をする気があるのだろう。
エルメリアがパンを頬張り、カイがスープを口にしていると、階下にある店の扉の鐘が鳴った。
「エルちゃーん、カイくーん」
聞き慣れた声に呼ばれて、カイは一階へ向かう。そこに居たのは、とある宿屋で働く女性だ。
「カイ君、おはよう」
彼女はカイに気付くと、親しげに挨拶してきた。
「おはようございます」
「エルちゃんも、おはよう」
カイが挨拶を返すと、彼女は彼の背後にも言葉をかける。カイが振り向くと、パンを頬張ったままのエルメリアがそこにいた。カイは失礼かとも思ったが、二人は全く気にしていないようだ。
レノークスは人間と魔物が共に暮らす街である。しかし、現実的に両者の間には様々な問題がある。そのため、レノークスには「区分け」といくつかの掟が存在する。
レノークスは東の山脈を源流とするレノークス川を中心としており、西側は海に面している。川は街の少し上流で二つに分かれており、上空から見ると巨大な中州のような陸地によって街が三つに区切られているのが分かるだろう。レノークスはこの川を基準に、「北区」「南区」そして「中央区」に分かれている。
レノークス北区は魔物とその夫が暮らす地区であり、様々な特色を持つ魔物に対応するため森や洞窟、池や沼などもあり、街も含めた土地の縮図のようになっている。取り決め上、人間の立ち入りは禁止されていないが、当然のように夫を持たない魔物もいるためそれなりの覚悟は必要である。その性質上、昼夜問わず淫らな気配がすることは言うまでもない。
レノークス南区は人間が暮らす地区であり、事実上唯一の陸路である山脈から続く街道は南区に繋がっていて、商船や漁船用の港も南区にある。一般的な交易や農作などを行う区域でもある。魔物の立ち入りは禁止されているが、これは人間が魔物を拒んでいるのではなく、人間を、ひいては男性を恒久的に絶やさないようにするための措置である(同時に、外部から訪れる人間と街との緩衝役としての意味もある)。
レノークス中央区は人間と魔物の交流のための地区であり、実質的に東区と西区に分かれている。東区は商業的な、西区は友好的(性的・恋愛的)な交流が主となっている。また南北区間の移動は(空を飛び、川を渡ることを除けば)中央区に繋がった橋を通らなければならず、名実共に北と南の、人間と魔物の接点となっている。
東区では人間の作る一般的な商品の他に、魔物が作り出す薬や魔術を始め人間よりも高い技術によって作られた武器や芸術品、衣服や装飾品なども取引されており、これらを目当てにレノークスを目指す人間の商人は少なくない。魔物にとっても、夫の性欲や精力を増強させる薬、誘惑用の衣服や装飾品などをやり取りできる上、酒や食料などを得られる意義は大きい。また、東区に店を構えている者は後述の西区運営のために資金を納める義務を負う。夜色魔法堂は中央東区にあり、その義務を果たしている。
西区では夫や(主に魔物の)妻を求める者を始め、人間や魔物の夫婦が交流する。その性質上、娯楽施設や宿屋が多く、一部では決闘場やイベント会場などが存在する。これらの施設は基本的に人間の女性が運営管理しており、前述の通り費用は中央東区が出しているためほぼ全ての施設を無料で利用することが出来る。
以上のように区分けした上で、この街にはいくつかの規則が存在する。一つは前述したように
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