白糸物語

 誰しも仕事の合間には休憩をとる。それが肉体仕事なら尚更だ。
 特に今は夏。梅雨も明けたばかりとはいえ、暑いことには変わりない。
 頭上を覆う木々の葉が日差しを遮ってくれているが、連日の雨のせいか土は普段よりも湿っており蒸し暑い状況だ。
 そんな山の道なき道を行く男。名を「啓吉(けいきち)」という。
 樵を生業としており、梅雨の間は仕事が出来ずにいたのだ。
 道中キノコが良くとれたため、今日は鍋でもするかと頭の片隅で思いながら、川の方へと向かっていた。
 昔、木を伐った後に山菜やキノコを取っていて倒れたことがある。医者には暑い中仕事をしたというのに水を飲まないから倒れるのだ、と言われた。それからは特に喉が渇いておらずとも、出来るだけ暇を見つけて水を飲むようにしてきた。
 男が木を伐る付近には一本の川が流れており、途中には美しい滝があると聞く。水を飲むのにわざわざ滝壺を選ぶ意味もないと、機会なく今まで見なかったが、今回はそもそも位置が滝壺に近い。どうせなら滝を見てみるかと滝壺へ足を運んでいる次第である。

 件の滝は、噂に違わず美しかった。飛沫は白く宙を舞い、響く轟音は壮大さと威厳を醸す。滝壺の水面に顔を覗かせると、水はとても澄んでおり光の具合で鏡のように顔を映し、波紋に消える。この川は水が綺麗なので、普段は底が容易に透けて見えるくらいだ。
 川の水は井戸の地下水よりも美味しいこともあって、啓吉の村は川の下流にある。大雨が降っても不思議と氾濫しないその川は、村にとって重要なものだった。
 そのため村には「川の上流にある滝には水神が住んでいる」と言って、地域特有の信仰のようなものまである。
 現に滝の傍には一軒の家が建てられている。
 昔、村の人間が建てたものだ。居心地の良い家を作り、水神が離れないようにと願いが込められていることは、村で育った者なら誰でも知っている話だった。
 無論、啓吉も村の出身である。
 家には用がない限り入るなと、子供の頃は祖父母に、樵の仕事をし出してからは父に、幾度となく言われている。
 一度、旅の者が雨宿りにと家に入ったが二度と戻って来なかったという噂もある。
 そんな、逸話には事欠かないような家から、一人の女性が戸を開けて出てきた。
 腰の辺りまで伸びた美しい黒髪は雫に濡れてかとても艶やかで、流れるような肢体を淡い紫の着物で包んでいる。
 啓吉は両の手で水を掬い今正に口を付けようとしている、なんとも間の抜け
た格好のまま、これを見ていた。
 今気付いたのか、それとも気付いていたのか、女は啓吉を見て、柔和に微笑んだ。
 手に掬っていた水はいつの間にか零れ落ち、啓吉は両手を下げた形で、しばらく女を眺め続けていた。



「朱知(しゅち)と申します」
 女は自らを朱知と名乗った。
 啓吉は自らも名を言い、川の下流にある村の者であることを伝えた。
 二人は件の家にいた。
 女、朱知はこの家に住んでいるのだという。
 確かに人の入らない家にしては埃もなく、人の住んでいる証として台所に野菜や米などを入れておく壺や水瓶などもあった上、窯には炭が多少残っている。
「祟りなどはないのか?」
 啓吉が湯呑の茶を傾ける前に、一言聞いた。
 茶を啜る音に、「ありません」という声が重なる。
 女の声は、耳などという簡単なものではなく、まるでその奥を撫でるかのように響いた。
 朱知は、不思議な魅力のある女だった。
 聞き上手といえばよいのだろうか、話していると気分が良く、質問には答え、そして笑ってくれる。
 余りに楽しいせいか、話し過ぎて日が傾き始めた。
 夜の山は昼のそれとは全く異なる。足元も進む先も見えず、獣が現れ、そして…妖が現れる。
 しかし、礼を言って立ち去ろうとした時、
「私は毎夜、この小屋で一人寂しく朝を待つ身。どうか、私をお慰め頂けないでしょうか」
 振り返ると、朱知が啓吉の袖を摘んでいた。
 腰を上げている啓吉を見上げ、乞うように見つめる。
 啓吉には妻がいない。
 朱知の言わんとしていることは分かっている。
 それでも、初めて顔を合わせたばかりの女と一つ屋根の下で夜を明かすのは、些か良識に欠ける行いではないかと躊躇った。
「申し訳ない。私はやはり村へ帰ることにする」
 それを聞いて、女は目元を曇らせ俯き、袖から指を離した。
 これを見て居た堪れなくなった啓吉は、
「明日もまた来る故。どうか、顔を上げて欲しい」
 と言った。
 数泊置いて、女はゆるゆると顔を上げ、姿勢を正し、笑みを戻した。
「待っております」

 家路を行く中、後ろ髪を引くような思いで一度滝の方を見る。
 木々に隠れ、既に見えるはずもない。にも関わらず、男はその後幾度も足を止めては後ろを見た。



 約束の通り、次の日も啓吉は朱知の家を訪れた
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