歯車が動き出す刻

 寝たきりのまま、通常なら一生治せないような傷を負ったシグレは、心が壊れかけていたが、ルカの献身的な介護によって、徐々に落ち着きを取り戻していた。

 だが、心の傷が癒えた訳ではない。シグレは塞ぎこんだかのように無口になり、ルカに対してもどこか余所余所しさを隠さなかった。

 今まで散々他人に裏切られたのだから、無理も無い。心を寄せれば、離れられた時の反動が大きいのである。

 とはいえ、ルカには感謝する気持ちもある。毎日食事だけでなく、排泄の面倒まで見てもらっているのだから、当然である。彼女が居なければ、シグレはとっくに自ら命を絶つ事を考えていただろう。

 いや、既に何度か命を絶とうとしていた。今や剣も握れず、歩く事すらままならない。それでも、命を絶つ方法はあるのだ。

 シグレは何度か舌を噛み切ろうとした。だが、それを実行するのは困難であった。ギリギリの所で生にしがみ付く本能なのか、舌をかみ締めるアゴに力が入らないのだ。それは何度やっても同じであった。いざ噛み切ろうとすると、何故か力が入らなくなり、萎えてしまうのだ。

 そんな面倒な奴を、ルカは見捨てようとしない。それどころか、一層献身的な態度を見せるのだ。それでもシグレは、ずっと傍に居るというルカの言葉を信じなかった。いや、信じないように自らに言い聞かせていた。

(ルカの事、信じてもいいのでは?)

 彼女の態度を見てそう思うシグレであったが、同時に思い直して打ち消す。

(……いや、まだ分からん。信じてまた裏切られれば、俺はもう立ち直れん)

 だから、ルカに対する態度を軟化させようとしない。いや、軟化させるのが怖かったのだ。それに、シグレはルカの顔を見るとフィーナを思い出す事があった。同じ姿形をしているのだから、当然である。また裏切られるのが怖かった。このルカだって、いずれは心変わりするのではないか。

 実際、月に一度は必ずルカが居なくなる事を、シグレは知っていた。どこかに良い男でも出来たのだろうか。心を寄せれば、ルカがいつかその男の元に行った時、もう立ち直れなくなるのではないか、と思ってしまう。シグレは、ルカに依存心を持つ事に内心怯えていた。

 これまでの経験からそうなるのも仕方無い部分はあるだろう。だが、あまりに臆病である事に代わりは無い。

(何で……生き残ったんだろうな)

 あの時処刑されていれば、ここまで苦しまなかったかもしれない。鋸で首を落とされる時は、苦痛で気が狂うかもしれない。だが、生き残ってここまで苦しむのも、また気が狂いそうになる。

 そして今日が、例の日であった。月に一度、ルカがいなくなる日である。特定の日――新月の日に必ずルカがいなくなる事まで、シグレは突き止めていた。

 せめて、手足が動けばと思った。手足が動けたなら、ルカが毎月どこに行くのかを突き止められるというのに。全く言う事を聞かない自分の手足が、シグレにはもどかしかった。どうしても気になる。だが、突き止める手段が無い。

「くそっ、せめて手足が動けば……」

 自身を苛む焦りの感情に、シグレは呻いて歯軋りした。別に恋人でも何でもないのに、ルカを縛ろうとする自分は勝手な奴だとシグレは自嘲する。だが、隠れて何かされているのも嫌である。

 かつて家を空けている間、フィーナに浮気された事が、今もシグレの心を苛むのだ。せめてルカが月に一度、何をしているのか分かれば、とシグレは思った。




 新月の夜。暗い部屋で一人悶えるシグレを、ルカは物陰から見つめていた。

 シグレを本当に好きなのなら、決して離れるべきではない。ましてやシグレ本人に、ずっと傍に居ると言ったのだから、なおさらである。

 それはルカ自身が一番よく分かっていた。だが、今日はシグレの前に姿を見せる訳にはいかないのだ。

 今日は、例の魔力が失われる日である。月に一度、新月の日はルカの変身応力が失われ、彼女の本当の姿がさらけ出されてしまうのである。いくら憎んでいようとも、シグレの心に残っているのは、フィーナという女の姿である。本当の自分など、見向きもされないであろう。

 それに、ルカは本当の自分の姿に劣等感を抱いていた。フィーナという女は、見た目なら美女である。それに比べて自分は、地味で背も胸も小さく、何の魅力も無いような少女である。そんな自分がシグレの前に出たら幻滅されそうな気がして、ルカは怖かったのだ。

 だが、そうは言ってられない状況になっている。物陰に潜むルカの耳に、シグレの呻き声が絶えず聞こえてくるのだ。

『くそっ、せめて手足が動けば……』

 いかにも苦しげなその声に、ルカは心が痛くなる。もう、これ以上は見ていられなかった。そろそろ、シグレの手足を取り戻す方法を実践する時が来たと思った。

 
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