漆黒の海に飛び込んで、やっと。
私は自由を取り戻した。
いや、生まれてから、これまで。
私には自由など無かったのかもしれない。
貴族の家に生まれ、優しくも厳格な両親の元で過ごした穏やかな日々も。
突然の結婚で、人質同然にあの男の元へ嫁いだ後も。
私は"私"という役割を演じていただけで。
本当の意味で生きていなかったのかもしれない。
身体と共に、心も水底へと沈んでいく。
その奇妙にゆっくりと流れる時間の中で私はそんな想いを抱く。
次々と息が泡となって、私の口から海へと散っていく。
苦しい。
当たり前だ。
私は只の人間。水の中で息ができる筈もない。
しかし私は、自分でも驚く程に穏やかな気持ちだった。
きっと今。
ちっぽけな満足感が私の心を満たしているからだろう。
初めて自分で決め、成し遂げた事。
それはささやかな復讐。
あの男の元から逃げ出すという。小さな抵抗。
おそらく、私を失ってもあの男は少しも悲しまないだろう。
毎夜、繰り返された悪夢のような出来事。
寝室を照らすランタンの灯かりに浮かび上がった男の顔はまるで氷。
それを思い出し、私はかすかに身を震わせた。
遠ざかっていく水面を月が照らしている。
月の光が波に揺れている様は、本の挿絵で見たオーロラのようだった。
夜の冷たい海の水が私を包んでいる。
けれど、それはどこか優しく暖かかった。
両の足の間から煙のように精が流れ出ていく。
私の意志とは関係なく注ぎ込まれた男の欲望。
この身体があの男によって蹂躙された証。
身体に。そして、心に刻まれた傷痕に今までの私は苛まれていた。
だが、それすらも今は、どうでも良い事に思えた。
何もかもが海に溶けていく。
あの男への憎しみも。
己の境遇に対する絶望も。
意識が消えていく恐怖も。
優しい海に包まれて。
私の生命(いのち)は解き放たれる。
海で亡くなった者は海神ポセイドンの許へと召される。
薄れゆく意識の中で私の脳裏をかすめたのはそんな言い伝えだった。
##########
瞼ごしに暖かい光を感じ、私は寝返りを打つ。
心地よい眠りを邪魔され、私の中に不快という波紋が生じた。
窓から差し込む朝日の仕業だろうか?
それより、いつの間に私は寝室に戻ったのだろうか?
消えてしまった筈の私の意識に泡のように疑問が浮かんでくる。
なにより、何度、寝返りを打てども、光は一向に消えない。
私は少しだけ不機嫌になりながら、ゆっくりと目を開いた。
そこに広がっていたのは見たことのない光景だった。
深い海の中。
私を取り巻く世界の全て。
どこまでも、どこまでも。大地とそれを覆う海が広がっている。
それは島育ちの私が始めて目にする雄大な景色だった。
暗い海の底にも関わらず、その果てしない光景がはっきりと私の目に飛び込んでくる。
どうやら、海の水自体が淡い光を発しているらしい。
その光景に私の心は打ち震えた。
感動の余り、思わず溜息が漏れる。
けれども最早、私の口からは空気の泡など漏れない。
ああ、そうか。
欠けていたパズルのピースがカチリと合うように私の意識が冴えていく。
ゆっくりと自分の身体に視線を落とせば。
碧い海の色に染まった見知らぬ、それでいてよく知っている自分の身体があった。
不思議と私はそれが恐ろしい事だとも。悲しい事だとも。
少しも思わなかった。
なぜならば、私の心も身体も優しい海に。深い愛に満たされていると分かっていたから。
先程まで感じていた不機嫌さなどは一瞬で吹き飛び。
私は生まれ変わった四肢へと力を漲らせた。
ひと掻きするごとに、まるで海の中を飛ぶように私の身体が滑っていく。
人であった頃には味わえなかった海と一体となった感覚。
窓辺から海を眺めていた頃からでは想像もできない解放感。
しばらくの間、私は新しい自分の身体で思う存分、羽を伸ばした。
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泳ぎ疲れた私はだらりと四肢の力を抜き、海流に流されるまま、海を漂う。
ぼんやりとそうして過ごしていると、ふと眼下の海底に煌びやかな場所が見えてきた。
それは明るい海の底でも一際輝いている場所だった。
黒く横たわる大地の上。大小様々な丸い建物に淡い光が灯り。
それがまるで真珠の首飾りのように。熟れた葡萄の房のように連なっている。
そして、その幻想的な光を放つ建物の間を何人もの小さな影が泳ぎ回っていた。
おそらく、あれは海に愛された者たちが暮らす場所だろう。
私は直感的にそう理解した。
そして、今日から私が暮らす場所でもあるのだ。
そう思うと胸が弾んだ。
もしかしたら、あの場所こそが天国なのかもしれない。
疲れていた筈の私の身
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