第1回「メルダース家の魔女」 - ゾフィーア編 -

 魔界の夕暮れは早い。
 空を覆う瘴気の層が太陽の光を遮る為、昼なお暗い世界。
故に。太陽が西に傾くにつれ、急激に藍色の闇が広がっていく。
その藍色の空を今、一筋の白金色の風が貫いた。

 前方に展開した三角錐状の防風障壁を風が叩き、ごうごうと唸りを上げる。
 彼女は箒(ほうき)の柄を握る小さな手に少しだけ力を込めた。
少女の体内に渦巻く魔力が柄を伝い、後方の穂先へと次々と送り出されていく。
次の瞬間、穂先の先端が弾けるように広がり、箒は急激に速度を増す。
穂先から溢れ出る魔力が空気にぶつかり、キラキラと瞬いた。

 眼下に広がる黒々とした大地が飛ぶように後ろへと流れていく。

否。

 飛んでいるのは少女の方だ。
 彼女は愛用の箒―アルター・トゥームに乗り、空を駆けている。
のんびりとした遊覧飛行ではない。レース用の高速飛行だ。
 少女は1週間後に迫ったサバト主催の飛行魔法レースに出場し、優勝するつもりだった。

 だから、こうして連日、飛行訓練に励んでいた。
けれど、日没が近づいた為、今日の訓練はこの1回で終わり。
 彼女は今日の成果の確認を込めて、全力で飛んでいる。

 限界まで魔力を注ぎ込んだ箒は手の中で絶え間なく震え、ともすれば暴走しそうになる。
 少女は制御と暴走の境界線、ギリギリのライン上でコントロールを保つ。
それは極めて集中力を必要とする行為。
 その状態を維持すれば、じわじわと体力と魔力が削られていく。
 彼女はともすれば、漏れそうになる喘ぎをぐっと歯を食いしばって耐える。
少女の幼い身体が軋む。それでも悲鳴は上げない。
 苦しみを露わにする事、弱音を吐く事は彼女の矜持が許さない。

 風を切り裂き、進んでいくとゴールにしている青い木が見えてきた。
その木の傍に1人の青年が立っているのが見える。
いや、実際には。今はまだ、それは黒い点としか見えない。
けれど、彼女の心ははっきりとその青年の存在を感じていた。

 彼の前で不様な姿は見せられない。
少女に宿る闘志の炎が燃え上がった。
 彼女は箒を握る白い手に一層、力を込めるとラストスパートをかけた。

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 上空を一陣の風が吹き抜け、木の枝が大きく揺れた。
 風が容赦なく青年の顔を叩く。
それでも彼はまばたきもせず、彼女の姿を見送った。
 大切な彼女が頑張っている。ならば、それを全力で支援するのが自分の役目だ。
 その想いを込めて、クロノグラフのボタンを押す。
そして、文字盤に示された針の位置に目をやり、彼は笑顔を浮かべた。

 ややあって、少女がゆっくりと帰ってきた。

 夕闇の中、彼女の白い姿が浮かび上がる。
 腰まである艶やかな金色の髪。強い意志を感じさせる翠(みどり)色の瞳。
色素の薄い小さな身体を白いワンピース状の飛行服(フライトスーツ)で包んだ彼の天使。

 彼女の操る箒の挙動はフラフラとして頼りないものだ。
無理もない。最後の飛行で全力を出し切ったのだ。
もう浮いているのが精一杯なのだろう。
 それでも少女はいつものように微笑んでいた。
彼女も手ごたえを感じたのだろう。

「ゾフィーア、おめでとう。記録更新だよ」
 祝福と労いを込めて、青年は開口一番にそう告げた。

「わたくしはメルダース家の魔女ですもの。これ位できて当然ですわ」
 ゾフィーアと呼ばれた幼い少女は誇らしげに薄い胸を張って答える。
そう言いながら、箒から地面に立とうとして、彼女は足をもつれさせた。
 青年は自然な動作で彼女を抱き止める。
「でも、もう無理な練習は今日でお終いにしよう。大会までの残り1週間は調整に当てる事。いいね?」
 彼は腕の中の少女に優しい声でそう言う。
「…わかりましたわ。お兄様がそうおっしゃるのなら」
 ゾフィーアは素直にそう返事をするとぐったりと青年の胸に顔を埋めた。
「それじゃ、帰ろうか」
 彼は少女の華奢な身体を横抱きに抱き上げるとゆっくりと歩き出す。

 彼女からの返事はない。
腕の中の小さな魔女は安心しきった表情(かお)で眠りに落ちていた。


※<クロノグラフ>ストップウォッチ機能の付いた時計。ドワーフ製の特注品。
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 魔界の夜は明るい。
魔界は夜の方が明るいと言われる。
それは紅い月光を浴びた瘴気の層が輝く為だ。

 魔物ともなれば、闇の中で行動する事も何ら苦にならない。
夜は魔物の蠢く時間なのだ。

 けれど、一部の魔物は夜に出歩かない事の方が多い。
なぜなら、彼女たちにとって、夜は愛と快楽の為の時間だからだ。

 淡いランプの光が色とりどりのガラスの嵌め込まれたランプシェードを通り、壁を斑に染めている。

 パジャマ姿のゾフィーアはそわそわとした様子でベッドの上に座って
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