君は月、僕は水たまり

 午後の穏やかな日差しが草原へと降り注いでいた。
爽やかなそよ風に草木が踊り、まるで浜辺の波のように揺れている。

 その若草色の絨毯の間を白い影がちょこちょこと跳ねる。
「まだ、大丈夫だよね?」
 その影は緑がかった金髪の少女だった。
彼女は夕陽色の瞳を腰から下げた携帯時計へと向けて、そう呟く。
そして、移動を再開する。
 少女が跳ねるのに合わせて、彼女の頭の上で細長い2本の耳が揺れる。
そう彼女は人間では無い。ワーラビットと呼ばれる魔物である。
彼女の名前はパット。ここ、綿雲ヶ丘に暮らす住人の1人だ。

「ちょっと、分けてもらうね」
 パットは草木にそう断ると丁寧に葉っぱを千切り取った。
千切った葉っぱは左手に提げたバスケットへと納める。
 彼女は野草摘みを生業としていた。
綿雲ヶ丘に生える野草を採取して、近くの人間の村へ持って行って卸す。
彼女はそうやって暮らしを立てている。

 だが、最近の彼女には1つだけ悩みがあった。それは…。

 パットの白い耳がピクリと動き、不意に彼女は足を止めた。
「ええ!? も、もう来ちゃったの!?」
 さあっと彼女の顔が青ざめ、パットは半ば悲鳴のようにそう漏らした。
「ど、どうしよ…!」
 混乱した彼女は意味も無く、その場でぐるぐると回り始める。
その間に聞き慣れた足音がどんどん近づいてくる。そして…。

 なだらかな起伏の向こうから現れたのは若い男だった。
パットが気づいた足音の持ち主。近くの村に住む木こりのブレオである。
 彼は一体何にするつもりなのか、肩にシャベルを担ぎ、背中にパンパンに膨れたバックパックを背負っていた。

「あ…」
 パットとブレオの目が合う。
「おい、パット…」
 口を横に真一文字に結び、鋭い目でブレオが呼びかけてくる。
長身な上、毎日の仕事で鍛えられた肉体は威圧感バリバリである。
「き…」
 パットの赤い目が大きく見開かれる。
「き?」

「きゃあああああああぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」
 パットは盛大な悲鳴を上げるとその姿の通り脱兎の如く逃げ出した!
「ま、待て!」
 ブレオは荷物を放り出し、彼女を全速力で追いかけてくる。
「来ないでえええええええぇぇぇぇぇぇぇっ!!!」
 悲鳴の尾を引きながらパットが走る走る。
その速度はとても人間の追いつけるものではない。
「くそ…ぉ…っ! 待ち…やが…れ…っ!」
 息切れを起こしたブレオはその場にガクリと膝をつき、荒い息で吐き捨てた。

###############

「はあっ、はあっ、はあっ!」
 男を振り切り、さらに10分間の全力疾走を成し遂げた少女は草の上に倒れこんだ。
四肢を投げ出し、仰向けに寝転がる。
彼女が空気を求めて喘ぐ度に柔らかな獣毛に覆われた胸がプルプルと上下に揺れる。
「うう…どうして…私がこんな目にぃ…」
 パットは手の甲で涙を拭いながら独りごちた。

 ブレオが始めて、パットに声をかけてきたのは1ヶ月前。
それはある日、彼女がいつもの様に野草を卸しに村に出かけた時。
雑貨屋の店先で店主と世間話に興じていた彼女は突然背後から呼びかけられた。
「おい、そこのお前…」
 まるで獣がうなる様な低い低音。
 びっくりして、振り返った少女の視界を男の長身が遮る。
気がつけば、いきなり彼女の真後ろに1人の男が立っていた。それがブレオだった。
彼は射抜くような視線で彼女を見下ろしていた。
「うきゃあああああああぁぁぁぁぁぁぁっ!??」
それが初めての逃走だった。

 最初の2週間。ブレオは走って、パットに追いつこうとした。
彼女が村を訪れた時。彼女が丘で野草を摘んでいる時。ブレオは姿を現し、彼女を追い回した。

 彼の執念は凄まじく、疾走の最中、疲労で足をもつれさせ、一度、坂から転げ落ちた程だ。
その時はパットも流石に心配になり、地面に横たわった彼の様子を恐る恐る確認に戻った。

###############

 汗と土塗れになってブレオが地面に横たわっていた。
パットは岩陰から恐る恐る顔を出して、男の様子を覗く。
しかし、流石に10mも離れていては細かい様子は全然分からなかった。
 風に乗って、パットの長い耳へ男の荒い息遣いが聴こえて来る。
どうやら生きてはいるようだ。
「あのっ! だ、大丈夫ですか!?」
 意を決して少女はそう呼びかけた。
「う……ああ…大丈夫だ」
 手負いの獣のような荒い息の中、ブレオの低い返事がかえってきた。
「お前に頼みがあるんだが…」
「な、何でしょう!?」
 不意にそんな事を言われ、咄嗟にそう返したパットの声は完全に裏返っていた。
「…もう少し、こっちに来てくれないか?」
「こ、こ、こ、怖いから! ぜ、ぜ、ぜ、絶対に嫌!! です!!!」
 激しくどもりながら彼女は即座に拒否した。

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