口色教典儀(こうしょくきょうてんぎ)

 砂漠と聞いて何を思い浮かべるだろうか?
砂と岩に覆われた不毛の大地。外より、この地を訪れた者たちは大抵そんな感想を抱く。
だが、それは真実ではない。砂漠には砂漠の生命が宿り、互いを生かしあっている。
この地が真に不毛であるならば、人も獣も…魔物すらも暮らさぬ土地であっただろう。

 1年も終わりに近づくと砂漠にも雨の季節がやってくる。
天の恵みは大地を潤し、砂の荒野を緑の絨毯へと変える。砂漠に訪れた生命の季節。
 虫も獣も鳥もこの短い季節を精一杯楽しもうと湧き出でる時。
 その季節をハリドは毎年楽しみにしていた。
緑の季節。それは彼にとって鷹狩りの季節でもあった。

 彼ハリドは砂漠に暮らす部族の長の子として生まれ、次代の指導者として厳しく育てられた。
そんな彼にとって狩猟は数少ない心の慰めの1つだった。
勿論、狩猟は只の遊びではない。馬を駆り、弓や槍の扱いを学ぶ武芸の鍛錬の1つ。
しかし、そんな建前など、馬で風を感じた時の、鷹が獲物を仕留めた時の、
何とも言えぬ昂ぶりの前には、たやすく吹き飛んでしまう。
 だから毎年、雨が降るのを今か今かと待つ彼の姿を兄弟や友人は「まるで恋人の帰りを待つようだ」とからかっていた。
 ハリドはそれ程に鷹狩りに熱中していた。

 その年は例年より少し早くに雨が降った。
 この時期が近づくといつでも出かけられるように準備を整えておくのが常だったが、
今年は少し遅れてしまった。
だが、それでも彼は構わなかった。その分、いつもより早く鷹狩りに出かけられるのだから。

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 ある夜、ハリドが宮殿の自室で短剣の手入れをしていると不意に友人が訪ねてきた。
訪ねてきたのは1人の美しい娘。といっても2人は世間に誤解されるような色っぽい間柄ではない。

 彼女の名はアフラ。砂漠の言葉で"白"を意味する名を持つ女性。
異国の血を引く彼女は、その名の通り、月光のような白銀の髪と砂漠の民らしい褐色の肌を持った娘である。彼女はシャツにズボン、腰帯に短剣を差すという男の衣装を身に纏っていた。

「やあ、アフラ。こんな夜更けにどうしたんだい?」
 ハリドは手入れを済ました短剣を鞘に納めると上機嫌で彼女を迎えた。
「明日の出発は早い。今夜はお互い早く休んだ方がいい」
 アフラの家系は代々ハリドの一族に仕えていた。
アフラもハリドの側仕えとして、護衛のような役目を務めている。
彼女は他の年頃の娘とは違って、衣装を着飾るより、乗馬や武芸を好む性質だった。
勿論、明日の鷹狩りにも同行する予定だ。
「殿下、申し訳ありませんが、明日の鷹狩りには同行できなくなりました」

 彼女は人前や改まった時などはハリドを"殿下"と呼んでくる。
彼本人は名前で呼ばれようが別に気にはしないのだが、公私の区別をつける為だという。
いかにも真面目な彼女らしい言い分だが、ハリドは未だに慣れなかった。

「陛下の命で西のオアシスへの隊商に同行する事になりまして」
 アフラの父親は男子に恵まれなかったからか、アフラを自分の後継者として育てている。
時折、このように簡単な仕事を任させる事もある。
「…そうか、残念だ」
 ハリドは落胆の表情を浮かべ、そう呟いた。
幼い頃から共に過ごしてきた気の置けない友人との鷹狩りを楽しみにしていただけに寂しい気持ちだ。…いや、そうじゃない。こんな時、私的な感情より優先させるべき事は。
「…道中くれぐれも気をつけるんだぞ」
 ハリドは一瞬で表情を切り替え、立ち上がってアフラをじっと見つめる。
「はい、心得ています…」
 彼女は目を伏せて、小さな声でそう答えた。
「良い旅の風が吹かん事を…」
 ハリドは笑顔を浮かべて、アフラの肩に手を置いた。

 何気ない、友への励まし。
しかし、肩に触れられた彼女は飛びのくように後ずさった。
「あ、明日の準備がありますので、わ、私はこれで…」
 驚くハリドをよそにアフラはモゴモゴとそう言い訳するとそそくさ部屋を出て行った。

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 薄暗い廊下を半ば走るように突き進む。
 アフラは湧き上がる衝動を抑えながら、足を動かす。

 肩に触れられた時は危なかった。
まるで雷に打たれたかのような衝撃が身体を走った。

 ハリドの真っ直ぐな目から逃れるように視線を外せば、そこに見えたのは彼の首筋。
若者らしい引き締まった筋肉を覆う肌は柔らかそうだった…。

 そこまで考え、自分が不埒な想いを抱いている事を気づく。
(わ…私が…ハリドの首筋に…キ…キスしたいだなんて…)
 恥ずかしさに顔が紅潮していくのが自分でも分かる。
それに伴い、口腔の奥から溢れてくる唾を何度も飲み込んで耐える。

 目指す台所の入り口が見
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