「濡れますよ?」
そう言って、男は女へと傘を差し掛けた。
空から絶え間なく降り注ぐ雨が、たちまち男の背広を濡らしていく。
灰色の空の下、黒く濁った沼の畔(ほとり)で男はその娘と出会った。
昨夜から降り続く雨の中、彼女は傘も差さずに佇んでいる。
そこを偶然通りかかった男は彼女の姿を見かねて自分の傘を差し掛けた。
あるいは運命だったのかもしれない。
女は男が近づいてくる事に気がつかなかったのか、傘を差し掛けられて、
ようやく振り向く。
間近で彼女の姿を捉え、彼は自分の台詞がナンセンスであった事を知った。
長い間、雨に打たれていたのか、女は既にずぶ濡れだった。
今更、傘を差した所で気休めにもならない。
傘よりハンカチーフでも差し出すべきだったか。
彼が女の有り様を見ていると不意に彼女と視線が合った。
そこには一度見たら忘れられない墨色の瞳があった。
己の顔が映りこみそうなまでに澄んでいるのに、底知れぬ水面を
覗き込んだかのような不思議な瞳。
彼は一瞬、その瞳に吸い込まれるような錯覚に陥り、しかし首筋に
落ちた雨粒の冷たさで我に返った。
そして、自分が娘の身体を無遠慮に見ている事に気づいた。
彼女が纏う白い単(ひとえ)の着物はたっぷりと雨を吸い込み、身体に貼りついている。
そうなる当然、娘らしい身体の輪郭が露になっている訳で…。
「し、失礼しました!」
彼は慌てて顔を背けつつ、傘の柄を女へと押し付けるように渡す。
透けた着物を押し上げる豊かな乳房。桜色に色づいた先端。
緩急を帯びた腰。柔らかな丘の下にある濡れそぼった谷間。
脳裏に焼きついた光景を忘れようと男は必死に別の事を考える。
そんな彼の耳に鈴を転がすような小さな笑い声が届いた。
チラリと遠慮がちに娘を見れば、俯いた彼女の肩が小刻みに震えている。
男は己の顔が急激に熱くなっていくのを感じた。
「ありがとうございます」
娘はゆっくりと顔を上げると彼へと向かってそう微笑んだ。
その無垢な笑みに男の羞恥は限界に達する。
「そ、それでは…ぼ、僕はこの辺で…!」
その場から逃げ出すように男は雨の中へ走り去っていった。
「あっ……」
1人取り残された女は雨に消えた男の背中をいつまでも見つめていた。
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「善い事しましたなぁ、梅原さん」
髪に白い物が混じり始めた初老の村長が褌(ふんどし)姿の青年に笑いかけた。
「そうですね……はっくしっ!」
梅原と呼ばれた青年は囲炉裏の火に当たりながら盛大なくしゃみで答えた。
「早く着物を着ないと風邪をひいてしまいますよ」
「ご、ご迷惑をおかけします…」
村長の妻である初老の婦人から着物を受け取った梅原は早速それを着て、ホッと一息をついた。
「いえいえ、倅(せがれ)のお古ですいませんが、遠慮なく使ってください」
村長夫婦の暖かい心遣いが身に染みる。
彼、梅原国治(うめはら・くにはる)は国家に仕える役人である。
彼は今、国の命を受け、視察の為に、この村に滞在していた。
雨の中、律儀にも視察に出かけた国治は1人の娘と出会い。
傘を失くして、ずぶ濡れで滞在先の村長宅へと帰宅した。
「しかし一体、どうして雨の中に立っていたのやら…」
彼女の事を思い出しながら、半ば独り言のように国治は呟いた。
ついでに浮かんだ彼女の濡れ姿は慌てて打ち消す。
「はは…見初(みそ)めましたかな?」
火箸で囲炉裏を突きながら村長がそんな事を聞いてくる。
「い、いえ…そういう訳じゃ…」
出し抜けにそう言われた国治は顔を赤くしながら答える。
「しかし、どこの娘さんですかねぇ? 村のモンは滅多にあの沼には近づかないのに」
初老の婦人が不思議そうに言う。
「ふぅむ、そうだねぇ…梅原さん、どんな娘さんだったのかね?」
妻の疑問は気になったらしく村長がそう問いかけてきた。
「どんなって…」
その問いかけに消えかけた煩悩が再び形を為そうと頭の中で渦巻く。
「い、色白で、腰まである黒い洗い髪の、二十歳(はたち)くらいの娘さんですよっ」
国治は口早にそう答え、大きく息をついた。
昼間、あの娘と出会ってから臍(へそ)の下がどうにも落ち着かない。
「そんな子いましたっけねぇ?」
よほど気になるのか婦人はしきりに首を捻っている。
すると村長が神妙な顔つきで低い声を出した。
「梅原さん、その娘さんはひょっとして、コレかもしれませんよ?」
彼は手首から先をブラブラさせながら両手を胸まで持ち上げて見せた。
「コレって?」
その仕草の意味が分からず国治はきょとんとした顔で問い返した。
「へえ、幽霊って事ですよ」
村長は低い声でそう絞り出す。
「バカだねえ! 昼間っから幽霊が出るもんかい!」
婦人は陽気に笑いな
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