落涙、そして抱擁

冷たい夜風が頬を撫で、髪を揺らす。
優しい月明かりが照らし、姿を映す。
ここなら町の喧騒も届かない。
ここは誰にも邪魔されない。
夜でも昼のような町の明るさが届かないその場に私はいた。
そこは廃墟。
かつて多くの人間を招きいれただろう、とても大きな建物。
人が寄り付かなくなって長く風雨に晒されているのだろう、あちこち汚れ、ひび割れているところもある。
その屋上に私はいた。
勿論一人ではない。
目の前には先ほど、私が初めて首に牙を突き立てた男性がいる。
私に背を向け、立っている。
いつも来ている黒い服ではない、先ほどのままの服装で。
何も言わず、ただ立っている。
その足元には本来月明かりで照らされてできるはずのものがない。

―影がない。

雲に隠れて月明かりが弱いからというわけではない。
町の明かりで遮られているわけでもない。
はっきりと映っているはずなのに。
彼の影はない。
まるで私と同じように。
「…」
彼は何も言わない。
そもそもここに来てから何もしゃべってくれない。
やっとのこと見つけ出したのだから。

―彼は私の前から逃げ出したのだから。

混乱していたのだろうか。
目を覚まして、いつもと違う状態に気づいたのだろうか。
それとも、初めて男性へ魔力を流し込んだことが失敗したというのだろうか。
わからない。
あの個室から止める私の声も聞かず、隣で眠っていたアヤカに目もくれず。
ただ逃げ出し、姿をくらまし、そして今やっと見つけたのだから。
「なんていうかさ」
彼はようやく口を開いた。
私が来たことを悟ってだろう、背を向けつつも声が届くようにしゃべる。
それでもこちらは見ようとしないで。
「やけに目が利くようになってるんだよ。こんな真夜中だって言うのに道を歩いてる人は見えるし、遠くの小さな看板の字まで読めるし…」
「…」
言えない。
言うことができない。
本当は言わなければいけないのに。
それなのに、告げられない。
「それに、体も軽い。力もおかしいくらいに滾ってくるんだよ。確か学校で階段から転げ落ちたはずなのに」
「…」
やはり、言えない。
何も口にできない。
どんな言葉をかければいいのかわかっているというのに。
どうすればいいのかわかっているというのに。
それができない。
「それにさ、さっきなんてここに来るのに歩いてきたんじゃないんだぜ?建物の屋根を跳んできたんだぜ?流石にここみたいに恐ろしく高い建物は無理でも一階二階ぐらいなら跳び越せるんだ。おかしいよな?」
それは彼の言うとおりだろう。
おかしい。ただの人間がそこまでできるわけもない。
名のある猛者でも、教団の主神の加護を受けた勇者でもそんなことはできない。
それは明らかに私の影響。
本来は親友の影響を強く受けているはずだがそれでも、全てとはいかずも半分ほどなら…私の影響もまた出ることだろう。
魔の王である親友がいくら私より上といっても私もまた上位の存在。
かつては肩を並べ、競い合った仲。
そんな私が、私の力が。
彼の体に影響を及ぼさないわけがない。
人間である男性の体に魔力が染み渡ることによる、魔物化。
そしてなるのはインキュバス。
ただし、私の、初めて男性にして成ったのは…ヴァンパイア寄りのインキュバス。
「なぁ、クレマンティーヌ」
彼はようやく私の名を呼んだ。
ただそれはいつものように優しい声じゃない。
温かな気持ちにさせてくれる言葉じゃない。
どこか冷たく、どこか切なく。
どこか…悲しい声色で。

「オレ…人間じゃなくなったのかな…?」

その一言に私は―

「―ああ…」

ようやく言葉を発することができた。
ただ自分でもわかるくらいに小さく。
消え入りそうな声で。
それしか言うことができなかった。
それを聞いて彼は…。
―ユウタは…。

「…そっか」

そう、呟いた。
彼もまた小さい声で。
寂しい声色で。
振り返って私を見た。

「…んじゃ、仕方ないな」

優しい笑みではない。
いつも浮かべていたあの笑みじゃない。
悲しげで、自嘲するような。
自分自身を卑下するような。
そんな笑み。
ユウタは既にわかっている。
自分が人間ではないということに。
それが誰の手によるものなのかも全てわかってる。
わかった上であの笑みを浮かべている。
本当なら私を責めたいはずなのに。
怒り、憤り、私を責め立てても悪くないのに。
それが普通なのに。
それなのに、ユウタは…っ!
「…何で」
「ん?」
「何で、君は…そうなんだ?」
ようやくこちらを見てくれたというのに。
その瞳を向けてくれたというのに。
私がユウタを見れなくなってしまう。
俯いて、自分が浮かべている表情を隠して。
恥ずかしくも震える声で。
「君は…私を責めたいのではないのか?君をそんな風にしてしまった私を…」
「…」

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