「まずは夕食を作ってもらおか」
案内された台所で割烹着を手渡される。おみつ姐の顔に浮かんでいるはにやにやとした、昔に見た覚えのある笑みだった。
人にどんな迷惑かけてやろうかと画策するいやらしい笑みで。
口では特に言ってこない。注文することはとくにない。つまり、眺めているだけでも楽しいということだろう。
なんと性悪な。だがこちらに非があるので強く出られない。結局仕方なくオレは渡された割烹着に袖を通して包丁を握る。
「冷蔵庫にあるもの使っていいの?」
「ええで。それからつまみも頼もか」
「つまみ?晩酌でもすんの?」
「飯に酒がつかへんなんてありえへんやろ」
典型的な呑兵衛の発言だった。
冷蔵庫の中から適当に材料を見繕い、水で洗ってとんとんとんと包丁で野菜を切り刻む。
背後には相変わらずこちらを見つめるおみつ姐。そんなに言いなりになったオレが面白いのかどこからか椅子を持ってきて座っている。もしも酒があるなら肴にして一杯やってることだろう。
呆れた。昔と何にも変わらない。小悪党みたいな笑い方も、人をいじくり倒して楽しむ性格も、だというのに妖しい雰囲気を纏った綺麗なところも。
ため息をついたその時、突然脇腹に走る刺激に上ずった声が漏れた。
「ひっ!」
「ほぅ。だいぶ筋肉がつきおったな」
臀部から背中にかけて掌が撫で、オレよりも高い体温を残していく。あくどい雰囲気だがその指先は細くて可憐な女性のもの。普通の男なら触れられることに嫌悪などしないだろう。
だが今は料理中。オレの手には包丁が握られている。そんな状況でやられては怪我の一つや二つ負いかねない。
「…危ないんだけど」
「別にええやろ。怪我せん程度に押さえとくさかい気にせんといてな」
「無茶を言わないでって」
「ん?ん?なんや?こないな別嬪から撫でられてうれしくてしゃぁないんか♪」
ニタニタと嬉しそうに笑いながらおみつ姐は顔を覗き込んでくる。悪戯を仕掛ける子供の用に純粋だが頭の中身は純粋さの欠片もないあくどいもの。きっと心行くまで辱めて泣かしたいんだろう、この狸は。
そんな彼女に短く一言。
「自分で言ってて悲しくないの、それ」
「…………あーそういやあの酒得意先のもんやったわ。こら借金さらに上乗せしたろか」
「おみつ姐って美人だよねー!」
まぁ、自他とも似認める美しさは確かに別嬪さんと呼べなくはない。あくどい雰囲気さえなければの話だが、それでもやはり美人である。
でもやっぱりその性格はいただけない。子供の頃にトラウマを植え付けられたせいだろう、この歳になってもまだびくびくしてしまう。
例えば――その指先をズボンにかけて一気に引き下げたりとか。
例えば――その足先で人の脹脛を思い切り抓りあげて跡を残したりとか。
例えば――その顔を首筋に寄せ唾液をたっぷり滴らせた舌で舐って「食ってやる」と囁かれるとか。
「…」
ろくなことされた覚えない。
というか、子供相手になにやってんだろうこの狸は。うちの師匠だってもっと自重……してないか。
椅子へ座り直して視線を向けてくるおみつ姐に小さくため息をつきながら包丁を動かし続けるのだった。
夕食を終えると既に月が昇っている時間帯。冷たい夜風の吹き抜ける庭先には淡い月明かりの下に照らされる長椅子一つ。その上にはいつの間に用意してきたのかお猪口と徳利が数本置かれていた。中身は確認せずとも間違いなく酒だろう。そのさらに隣には夕食のおかずだった鶏の皮のから揚げが置かれていた。つまるところ、月見酒。満月ではないものの、透き通った夜空に淡く輝く月は酒の肴にもってこいだろう。
そんな長椅子の上でオレはおみつ姐の隣に座り、お猪口を傾け酒を注いでいた。
「ひひひ♪懐かしいわ」
実に楽しそうにおみつ姐は笑って酒をあおっていた。香りだけでもくらりとくるほど強烈な酒をまるで水かジュースのように飲み込んだ。白く細いのどが上下し、艶やかな唇からお猪口が離れる。まだ数杯だというのに白い肌は朱に染まり始めていた。
「何が?」
「昔もこうしてもろたのを思い出すわ。つたない仕草で酒を注いどった時のことをな」
「…あったっけ?」
「あったわ。千歳はんがまだ生きとった頃やけどな…」
おばあちゃんの名前を口にするとほんの僅かに寂しげな雰囲気が漂よった。隠してはいるが彼女もまたおばあちゃんと親しくしていた相手だ。生きていた頃には度々通い、オレとあやかの世話も手伝ってくれたのをよく覚えている。おかげで数字には強くなったが基本嫌な出来事しか思い出せない。
空いたお猪口に酒を注ぐ。白く濁った日本酒は月の光を反射して滑らかに落ちていく。細くとも途切れることなくゆっくりと。わずかにたった波で日本酒らしい芳醇な香りが弾けた。
そんなオレの姿をおみつ姐
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