水面の出会いに、抱擁を

初めて触れる人間の肌は温かかった。
背中に感じるボタンの感触が不快だが、服越しでも感じ取れる体温は川底では知りえなかった優しいもの。重なっているだけでとろんと思考が溶けて心地よさに沈んでいく。

「…ん」

逞しさのある固い感触は冷たい川底よりもずっと温かかった。










事の発端はこの人間がここで釣りを始めたことだった。
ここ最近になってよくここへと通う男の人。特徴的なのは黒い髪の毛とそれ以上に濃い黒い瞳。その二つに合わせてなのか服も同じように黒一色。どこか高級そうな品のいい格好は森の中にはあまりにも不釣り合いで奇妙に見える。そんな彼は川のすぐ横に生えている木の傍に腰を下ろすと釣り糸を垂らす。枝と蔓でできた釣竿は単純に魚を釣るだけのものだろう。
初めて見た時は魔物を毛嫌いする人間の類かと思って警戒したがその様子はなかった。血眼になって私達を探す様子もなければ時折隣を過ぎるマンティスも気にとめなることはなかった。ためしに頭だけ出して観察をしてみる。二度目の時には手を振ってくれた。三度目に至っては話しかけてもきた。四度目ともなれば警戒心なんて欠片もなくじっと見つめても平気だったことからどうやら友好的らしい。



興味が出てきたのは訪れて五度目の時。



木々がざわめく優しい風が吹き抜ける日。柔らかな日差しを遮る木陰の下で彼が眠りこけた時の事。無防備な姿は魔物から見れば襲ってくださいというようなもの。これでは釣りに来たのではなく襲われにきたようなものだ。
だが釣竿の様子を気に留めないのは別の場所に罠を仕掛けているからだと知っている。眠ってしまっているのは今日の日和が昼寝するには最適だというのをわかっている。それでもこんなところで眠る辺り肝が据わっているのか無頓着なのかはわからない。

「…」

ためしにと思って川から這い出す。滴る水滴を振り払うと木陰の下にいる彼に近づいた。起こさないようにゆっくりと。傍に来るとしゃがみ込み様子をうかがう。上下する肩。安らかにたてられる寝息。深い眠りではないが浅い眠りでもないだろう。これならちょっと触れたところで起きはしないはず。


ほんの出来心からその頬に触れてみた。


「っ」

温かくて柔らかい。傷つけないように撫でると掌に伝わってくるのは私よりもずっと高い体温。元々川で暮らす私と地上で暮らす人間と体温を比べれば彼らの方がずっと高い。なら彼もやはり人間なのだろう。

「…」

もう少し感じてみたい。そう思って身を寄せてみる。肩に頭を預けてゆっくりと体重をかけていく。
が。

…違う。

寄り添うような姿で寄りかかってみるがなんだか違う。悪くはないのだがよくもない。身長差のあるせいか頭を乗せにくいからだろう。もっとうまく収まる形があるはずだ。もう少しその体温を感じ取れる体勢がきっとあるはずだ。そう、例えば…その開かれた足の間とか。

「…」

ゆっくりと両腕をあげて広げられた足の間に体を滑り込ませる。起こさないように細心の注意を払いながら。両腕を上にあげ、ようやく体を収めることに成功する。尻尾が少し邪魔だが先ほどよりはずっと―

「っ…」

ダメだ。
痛い。
すごく不快。
前面についた五つのボタンが体重をかけた分だけ背中に食い込んでくる。これでは座り心地は最悪だ。まだ先ほどの方がよかったと言える。

「…」

ボタンを取ってしまおうか。でもそれでは彼も困ることだろう。なら………外してしまおう。
胸の中で呟いてゆっくりとボタンを外していく。五つ目のボタンを外して、黒い上着の前面を広げると現れたのは雪のように真っ白な薄い服。日の光に煌めくそれはやはり高級そうに見えるが上着よりも生地は柔らかそうだ。そこへ向かって背中を押し付ける。広げた上着を引っ張って潜り込む。

…これだ。

ついでに組まれた手をそのままに、輪となった腕をくぐってお腹あたりに固定する。後ろから抱きつかれるような格好にして再び体重をかけた。

…これだ!

背中にフィットする固い体。伝わってくる人間の体温。すっぽりと収まることのできる広げられた足の間。そして回された細くも逞しい二本の腕。
包まれていると感じられる。
守られていると思えてしまう。
一人では絶対に得られない感覚に自然と頬が緩む。

「〜♪」

右に左に体を揺らす。鼻歌でも歌いたい気分だが起こさないように注意しないといけない。
背中の感覚に気を取られているとふと耳に入る音に気付く。

「…っ」

それに気づけたのは木々のざわめきが収まっていたからか。あまりにも静かな森の中で唯一聞けてくるのは水の流れゆく音のみ。本来聞こえるべきものがない違和感に気付く。

…寝息は?

不思議に思って振り返ると視線の先で黒い瞳とぶつかった。

「…やぁ」

眠たげに開いた瞳
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