髪から、肌から、服から滴る雨粒をそのままにオレは社へと足を進める。腐った床が抜けないように気を付けながら古ぼけた格子をあけて中へと進む。
中は真っ暗で何も見えない。夜で雨の降っている今明かりのない室内では何が何だかわかるはずもない。だけど、誰かがいる気配はする。とても小さな呼吸が、わずかに身じろぐ音がはっきりと感じられた。
一歩、二歩、三歩進んでようやく人の輪郭が浮かび上がってくる。暗闇の中だというのにはっきり瞳に映るそれは昔のように来るものを招こうとはせず、背中を見せる女性の姿だった。
「…っ」
オレの足音に反応してか頭の上の二つの耳がぴくりと動いた。続いて九本ある尻尾ざわめくようにゆらぐ。それでも彼女はこちらを振り向こうとはしなかった。
「…来るなと、言ったはずじゃぞ」
玉藻姐はオレに背中を見せたままそう言った。
「儂の言葉がわからんほど馬鹿ではあるまい?」
「わかってるよ」
「なら…」
ゆっくりと振り返る九尾の女性。暗闇の中だというのに金色の長髪が揺れ、九本の尻尾が靡き、誰もが見とれるだろう美貌を備えた顔がこちらを向くのをはっきりとわかる。長く生えそろった睫毛や桜色の唇さえも見えるのはそれだけ彼女の存在感があるということだろうか。
ただし、その表情は憎々しげに歪んでいた。その瞳は憤怒一色に染まっていた。
「なぜ…来た……?」
声自体静かなものだった。普段と比べれば少し落ち着いた、そんな声色だった。だがその一言からは明らかに怒りの感情が混じっていることが理解できる。
同時に、寂しさを感じさせるものでもあった。
「儂を一人にせい………今は一人になりたいんじゃ」
怒りたいのか、泣きたいのか。
すがりつきたいのか、叫びたいのか。
嘆きたいのか、慰めてほしいのか。
玉藻姐は自分自身どうしたいのかよくわかっていない姿をしていた。
これほど荒れる玉藻姐を見たのは初めてだ。今までにも命日には泣く姿を見たことがあるがオレに向かって怒鳴ることなんてなかったというのに。
だから…だからこそ。
こんな姿を見せつけられて、黙って去れるわけがない。
普段を知っているからこそ、なおさら一人にできはしない。
オレは玉藻姐へ向かって一歩踏み出した。
「いくら建物内でも濡れたままだと風邪ひくよ。戻ろう?」
「…一人にせい」
しかし彼女は動かない。
「こんなところで一人でいて倒れたりしたらどうするのさ。帰ろう?」
「…一人で帰れ」
それでも彼女は応じない。
「玉藻姐」
「…儂の言うことが聞けぬのか?」
彼女はオレの言葉を聞こうとしない。
一人閉じこもり、過去の思い出へと逃げていく。
その瞳が向けられているのは愛おしかった一人の女性。
その心が向けられているのは今はない昔の出来事。
共にこの世にはもうない、過ぎ去ってしまったもの。
抱いたところで気持ちは伝わらない。
想ったところで感情は届かない。
叫んだところで声は聞こえない。
泣いたところで誰も慰めてくれない。
―だからこそ、行かなければならない。
おばあちゃんに比べればオレのできることなんて些細なこと。玉藻姐を救った彼女とただ甘えていた青少年では雲泥の差だ。
せいぜいでいるのはここにとどまり続けること。
玉藻姐の隣で支えること。
彼女の心を支えること。
「…餓鬼が」
不意に呟いた声は聞いたことのないものだった。甘く、惑わすような声色は低く獣のように唸る声となっている。警戒するためのものなんてものじゃない、真っ向から敵対するための敵意をむき出しにしたものだ。
初めてみる玉藻姐の怒った姿。九本の尻尾が膨れ上がり切れ長の目がつり上がる。ちらりと覗く八重歯がやたら鋭く見え、剣呑な雰囲気はまるで師匠が師匠じゃなくなったときの状態みたいだ。
人を前にしているときと違う。
人間よりも遙かに格上の存在と向かい合う感覚。
精神が押しつぶされてしまいそうな、心が食われてしまいそうな、背筋がふるえ、冷や汗が吹き出し、呼吸すら満足に出来なくなる。
社の周りには九本の柱が建てられていた。それだけではなくいくつもの札が釣り下がっていた。その理由が今なら嫌というほどわかる。
九尾の妖狐。それは人間の手に負えるようなものではない。あれを誰がやったのかはわからないが普通の人間ならば恐怖し、慄くことだろう。今の玉藻姐を前にしただけでも気絶するかもしれない。そんな相手を野放しにできるほど人間は強くない。
「昔からそうじゃったな…やめろということをやめんで儂の尻尾に抱きつきにくる…なんとも鬱陶しい餓鬼じゃと思っとったが成長しても変わらんとは思わんかったぞ」
「…はっ」
だがオレは玉藻姐の言葉に鼻で笑ってやった。その怒り狂う神経を逆なでするように。
「そういう玉藻姐だっていつまでもうじうじして
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