私が魔物化しかけ、体調を崩してから数日。あの時飲んだ薬のおかげか魔物の魔力に犯されることもなく未だすこぶる調子がいい。これならば何もしなくともひと月この魔界で暮らすことも容易だろう。
だが、それでも私は祈りを捧げていた。膝をつき、両手を組み、瞼を綴じて、十字架へ向かって。
ただ一心に祈るのは神様のこと。
ただ一念に願うのは試練のこと。
ただ一途に想うのは私たちのこと。
今まで捧げてきた祈りを今までどおりに、そして私たちが神様に救われるように。
そうしていると背後で唸り声が聞こえた。
「ん〜…郷土料理、か?」
私が祈りを捧げている間パートナーである黒崎ユウタは机に座り本を読んでいた。ここの文字なんて読めないのだから意味がないのだが眺めているのは料理の本。図面を眺め、文字の羅列を観察しながら内容を読み取っているらしい。随分と器用なことをする男だ。
祈る私と読書中の黒崎ユウタ。そんなことをするよりも私同様祈るべきだというのにそんな素振りは今まで全く見せない。信仰心がないのはやはり…問題だ。
そんな風に考えているとこんこんとドアがノックされた。
「ん?はい?」
椅子が引かれかたりと乾いた音が響く。黒崎ユウタは手にしていた本を置いてドアに駆け寄っていった。
誰だろうと気になるが今は祈りの最中。それに彼が出てくれるのだから私が関わることでもない。ここを訪ねてくる相手なんてこの宿の店主ぐらいなんだ、彼一人で十分だ。
「おはようなのじゃ!」
聞き覚えのある幼くも楽しげな声色に思わず転びかけた。
振り返ってドアの方を見るとそこにはここ最近になって見る機会の多くなった忌々しい魔物の姿。近くに立ち寄ったから挨拶しに来たとでもいうような気軽な風貌でそこに立っていた。
「ま、またあなたですか…っ!!」
「よう、ヘレナ」
驚く私と違って気軽に挨拶を返す黒崎ユウタ。それを見てバフォメットは飛び跳ね彼の体に抱きついた。
これで彼女が訪れるのは何度目になるだろうか。初めの時と私が魔物化しかけた時だけじゃない。当然片手の指の数なんて既に超えてもう両手の指の数さえ超えるほど。いくらなんでも多すぎる。
「んむ〜♪ユウタの匂いじゃ〜♪」
ぐしぐしと顔を擦りつけて彼の匂いを堪能するように呼吸を繰り返す。それどころか自分のものだと言わんばかりのマーキング行為までする始末だ。
このバフォメットとは今までに何度も話し合う機会はあったがそれでも魔物に対する価値観は変わらない。
神様に見捨てられるほど汚らわしく、他人までを堕落に引き込む愚かな存在。一刻も早く浄化すべき劣悪なもの。
その魔物は今黒崎ユウタに抱きついている。それならばまだいいだろう。彼にとって幼子の姿をした魔物はただの子供と大して変わらないのだから。
だが。
「んふ〜♪」
「まったく、仕方ないな」
その魔物に向ける微笑みが気に食わない。
消すべき存在。滅すべき生き物。浄化すべき対象。
その相手に向かって浮かべる笑みは私に向けていたものと同じ。温かく、柔らかく、そして優しいもの。それをどうして魔物なんかに向けているのだろうか。
―矛盾している…。
自身の胸にこみ上げた気持ちは全く反対のものだった。
彼は無知だから仕方ないという理解と魔物は忌み嫌うものという価値観。了承できても納得できないという板挟み。
ただ一心に祈り続けて感情を落ち着けようとするも二人が気になって仕方がない。こんなこと今までにはなかったというのに。
「ユウタ〜、一緒にご飯食べに行くのじゃ。デザートの美味しい店を知っとるんじゃよ」
「まだ朝っぱらだぞ…それに、今はヴィエラに付き合わないといけないんだ。ごめんな」
「なら付き合うのじゃ」
「ん〜…邪魔になるだろうからなぁ」
むしゃくしゃする。どうしてだか彼にバフォメットがベタベタするのを見ているとこの上なく腹立たしくなってくる。
胸の奥が傷んで、腹の底が煮えくり返って、理由がわからなくもイライラする。
わからない。
黒崎ユウタが魔物に対して笑みを浮かべているのかわからない。
わからない。
幼子の姿をした魔物が黒崎ユウタに抱きついているだけでもどかしくやきもきするのかわからない。
わからない。
―私が抱く感情はなんなのか、わからない。
「ならぬしも一緒に行くのはどうじゃ?部屋にこもりっぱなしだと体に悪いぞ」
「そんなこと言ってもヴィエラにはヴィエラの用事があるんだよ。あんまりワガママ言うんじゃないぞ」
他愛のない会話。まるで兄と妹のような話の内容。他人が話すものを聞くのは失礼だと分かっているのに私は聞き耳を立ててしまう。
「…っ」
そして心が、揺れてしまう。
気持ちが、乱れてしまう。
うるさいと、聞きたくないと。
楽しそうに会話をしないでくれと、どうしようもない感情が
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