人間の精神というものは存外に脆いもので、一日24時間の大半を労働に費やし続けると半年も保たない。
精神が砕けてどうなるかというのは人によって様々だが、俺の場合、ある日道を歩いていて突然、車道に身を投げたんだそうだ。
衝動的に自殺しようとして失敗した、ということらしいのだが、心身が耗弱し過ぎたせいかどうも身投げ前後の記憶が曖昧で、轢き殺されかけたんだと言われても今一つ実感が無い。
が、もしあと3cmバスの軌道が違っていたら俺の頭はトマトめいて砕かれていたというのは、紛れも無い事実だった。
命は助かっても、さすがにバスに跳ねられて無傷というわけにはいかず、両手を骨折して入院する運びとなった。
自殺志願者と見なされているためか、4人位の患者を収容する一般的な病室ではなく、どこかよく分からない箇所に設置された個室に入れられた。
他の患者と接触することがほぼ無いためか普通の病室よりもなんだか閉鎖的で、まるで精神病棟のような雰囲気もあったが、死を免れたのだから贅沢は言えない。
バス会社に訴えられなかっただけでも、よしとせねばなるまい。
そんなわけで、妙に広い病室で独り、手の治癒を待っていたわけだが、ここで一つ問題が生じた。
傷ついたのは両手だけで、すり減っていた精神も実際仕事から離れてみるとなかなか順調に回復してくれている。
健康な肉体が、性欲を持て余し始めていたのだ。
誰もいない時間にこっそり抜こうと思っても、両手を包帯に巻かれていてはどうしようもない。
鷲田さんという名の女性看護師が三度の食事を持ってきてくれたり、包帯を巻き直しに来てくれたりする度に、どうにも勃起が抑えきれず、恥ずかしい思いをしていたのだ。
まあ、今でこそ鷲田さんとはよく顔を合わせるが、退院してしまえばもう接点はない。
旅の恥はかき捨て、なんてあまり良い言葉ではないかもしれないが、あちらは仕事でやってるんだし、そう珍しいことでもないだろう。
いつまで入院していなければならないのかはまだよく分からないが、リハビリを含めてもそう長く入院させられることは無かろう。
そんな風になんとなく考えていた俺の部屋を、ある日一人の医師が訪れた。
「やあ。調子はどうだい」
「おかげさまで。まだ動かすことは出来ませんが、痛みは全然ありませんね」
白衣の下に大きな胸とむっちむち太ももを隠したその女は、百合川先生。
病院に担ぎ込まれた俺に素早く処置を施し、自殺らしいと聞くや今の個室を手配してくれたという方である。
医師にしてはかなり若く、30に届くか届かないかといった風貌だが、落ち着き払った物腰や余裕ある立ち居振る舞いなどが完全にベテランのそれで、数年前まで大学生だったなどとはとても思えない、不思議な女医さんだ。
砕けた口調だが、錯乱して衝動的に死のうとした俺みたいな男に配慮して、わざわざ個室に入れてくれる辺り悪い人ではなかろう。
相部屋と比べて高額になるであろう支払いのことは気になるが、そこは俺を間接的に死なそうとしたあのクソ会社に負担してもらえばいい。恐らく労災に認定されるであろうし、いずれにしても俺の負担はそう大きくならないと、前に百合川先生は確約してくれた。
丸椅子を引き、ベッドサイドに腰掛けて先生は言った。
「順調に治っているようで何より。いろいろ本調子になるまでにはもう少し掛かるだろうが」
「いえ、良い機会ですので、ちょっと休息させてもらいますよ。まさかこんなことになるなんて、思ってなかったんですがね」
「まあ、命があっただけでも儲けものということにしておいてくれ。さすがに我々でも、完全に死んでしまった男は、まだ助けられんからな」
自ら車道に突っ込んだ男に対して随分ズバズバ言ってくれるが、不快感はない。なんだかずっと、この病院にいてもいいかと思ってしまいそうなほど、百合川先生の雰囲気は魅力的だった。
「ところで君。両手が使えないとなると、その……色々と不便なことも、あるんじゃないか」
「不便? いえ、そりゃまあそうですけど……看護師さんもいますし。不満なんかないですよ」
「ははは。や、そういうことじゃなくてね。君だって若い男性なんだから、そろそろ欲望を抑えきれなくなってるんじゃないかと思ってね」
目下最大の懸案事項をずばり言い当てられて、思わず言葉に詰まる。緊張をほぐそうとしたのか、殊更に柔らかい表情で先生は続ける。
「別にこれはセクハラしてるんじゃあない。ただ我々としては、苦しんでる患者さんがいたら楽になって欲しいんだよ。
お腹が空いて苦しんでる子供を見たら、君だって辛いだろう? できれば、なにか食べさせてやりたいと思うだろう? それと同じさ」
食欲と性欲を同列に扱われると、なんだか違和感がある。言いたいこと
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