勤め先の興行会社から帰る途中、本屋の店先で平積みされた本に目を惹かれた。
堅い思想書や学術書よりも分かりやすい恋愛小説や冒険活劇などに人気が集中するのは、魔物の世界も人間の世界も変わらない。今最も売れていると思しきその本は、ふとしたきっかけでどこにでもいる平凡な男が大人気アイドルの少女と知り合い、紆余曲折の果てに結ばれるという娯楽小説だった。
恋や愛の物語は、人間や動物と違って愛だけで食っていける魔物たちに強く支持されるジャンルである。
特に、魔物たちを受け入れている地域では、例えば愛しい男との身分格差に悩む少女が魔物化の果てに幸せを手に入れるお話だとか、始め敵対していた教団兵と魔物娘が衝突を繰り返すことで互いを理解し合い、深く愛しあうようになるラヴロマンスなんかが大変よく売れる。が、今俺の持っている本はどちらかと言うと男性に向けて書かれたものらしい。
主人公の男はやや特徴が薄めで、読む男性の感情移入や同一視を必要以上に妨げない。それでいて、ヒロインであるアイドルのことになれば人一倍奮闘し、心地よいほどの勢いと豪胆さで次々と現れる恋の障害を片っ端から薙ぎ払っていく。
有名な美人を恋人にしたいとか、誰もが羨む可愛い彼女を連れて街を歩きたいとか、そういう男としてごく当たり前な感情を持つ者にとっては、読んでいて大変楽しい小説であろう。さすが、売れ筋なだけはある。
だが俺は静かに本を閉じ、棚に戻して店を後にした。
何も白日夢を見る必要は無い。家に帰れば、俺だけのアイドルが待っていてくれるのだから。
我が家に到着し扉を開けると、奥から愛しい妻が駆け寄ってきた。
「……お、帰り……ごは、ん、できてる、よ……」
嬉しそうな様子とは裏腹にその言葉はたどたどしく、声に張りもない。しかし、これが彼女、トクシーヌの精一杯なのである。
海原の歌姫、セイレーンであるはずのトクシーヌは、今は弱く掠れた、ハスキーな声しか出せないのだ。もう、どんな歌も歌うことはできないのだ。彼女の首筋にはっきりと浮いた醜い傷跡が、それを証明している。
出された夕食はそこらのレストランで出てくるメニューを遥かに凌駕するほど豪華であった。特に何かの記念日というわけでもない今日の食事にここまで手をかけるという辺りに、トクシーヌの精神が現れている。
「じゃあ、いただきます」
「いただきます」
フォークで刺して口に運んだ肉料理の味は極めて繊細で、相当な時間を掛けて下ごしらえをしたであろうことが推察される。
「うん、美味い。こんな良いもん食っちまったら、もう外食なんてできないな」
「……あ、ありが、と。これから、も、毎日、お料理するから……ちゃんと、帰って、来て、ね」
「ん、そうするよ。
今日は俺のいない間、誰も来なかったか?」
「あ、う、うん。来て、ないよ」
「そうか。まあ、誰が来ても別に出なくていいよ」
ちょっと甘やかすようなことを言うと、トクシーヌの顔は安堵に緩んだ。今の彼女は、俺以外の人間に会うことを何よりも嫌うのだ。
かつて、トクシーヌは同族たちの中でも抜きん出た歌唱力と美しさを誇っていた。
どんなセイレーンにもマーメイドにも負けない、聴く者全てを魅了する歌声と、真夏の太陽のように明るく輝く美貌。
彼女こそ生まれながらのアイドル、崇拝されるために生まれた偶像であった。
興行会社に勤め、トクシーヌのマネージャーとして多忙な彼女のスケジュールを管理していた俺すらも惹きつける何か強烈な物を、彼女は持っていた。
そんなトクシーヌをある日、この上無い不運が襲った。
リハーサル中、ステージを照らすために設置されていた魔導照明装置が落下するという事故が起きたのだ。
重い照明は真下のトクシーヌに直撃。命は助かったものの、アイドルの生命線たる喉を酷く潰されてしまい、歌うことなど到底不可能な身になってしまった。
人前に立って歌うこと、自らの価値と才覚を誇示し聴衆を魅了することを唯一の存在理由としていたトクシーヌは、今も引き攣れが消えずに残るほどの大きな傷を首に負って、かつての明るさを完全に失った。例え歌唱力に別状なかったとしても、あれほど大きな傷が残ってしまっては、あの職業を続けるのは到底無理だっただろう。
アイドル業は当然引退、しかしそこから別の生き方を探すでもなくただ自宅に引きこもり、遂には自殺騒ぎを起こすに至った彼女を、元同僚として俺は放っておけなかった。
会社から新たに割り当てられた別なアイドルのマネジメント業務をこなす傍ら、俺はよくトクシーヌを訪ね、いろいろ話をしたりして慰めたものだった。歌声を失って世界から見捨てられたと思い込んでいたらしき彼女にとって、傷を負ってなお自分のことを気に掛けてくれる存在がどれほどの物だった
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