死のうと思っていた。
冷たい風が吹き荒ぶ断崖の上、一歩足を踏み出せばそこには何も無い。遥か下の海面へ向けて、真っ逆さまに落ちるだけだ。
風の音と海鳴りとに混じって、ヒュウヒュウという微かな笛の音のようなものも聞こえる。
今立っている崖は長い年月を掛けて岩が波に削り取られることで出来たものであり、海面近くには岸へ向かって洞窟が伸びていると聞く。
海食洞がどこかで陸とつながり、その穴を通る風が口笛のような音を立てるということを知ってはいたが、しかし俺はその音が誰かを弔うためのものであるかのように思えてならなかった。
俺が海を見ているのは、そこに愛する彼女、イヴが眠っていると思ったからだ。
と言っても、確証は無い。無いのだが、先日俺とイヴの住む街を襲った未曽有の大暴風雨は、陸地のあらゆるもの、家も道具も人間も、全て海へと流し去ってしまったのだ。どこか瓦礫の下で朽ち果てている可能性も否定はできないが、確かめようはない。
俺としては、海に祈るより他無いのだった。
海から吹き付ける風は身を切る冷たさで、この場にわざわざ立って寒い風に肌を晒しているのは俺のみ。
だから、これから俺が踏み出す一歩を邪魔するものは、何も無いのだ。
崖の淵には柵のようなものなど据え付けられていないが、しかし俺と同じ場所に立っていたとしても、生きる意志を保った人間の目の前には透明な壁のようなものが立ち現れ、落下を阻むのだろう。
虚空に脚を踏み出すことを恐れず、むしろそれに解放を求める人間こそを、崖の突端は誘う。
俺もイヴも、ずっと一人ぼっちだった。
だからこそあれほどに愛し合えたのだと今では分かる。あいつを失ってまた一人に戻った俺はもう一分たりとも生きる気力を持たない。
実際、あの嵐の日以来水や食べ物もロクに取る気になれない俺は、恐らく既に幽鬼の如くやつれ果てているのだろうが、鏡を見ることも無いため自分では分からない。
そんな訳でもう立っているのも億劫なのだ。一歩足を踏み出せば、遥か下の海面が俺の意識を刈り取ってくれる。
都合の良いことにこの断崖は海に対してほぼ垂直になっており、上手く飛び込めば恐らく岩に身体をぶつけて痛い思いをせずに、安らかに逝けるだろう。だが、例え全身を打撲する羽目になったとしても別に構わない。どうせその痛みも、長くは続かないのだし、今生きている辛さに比べれば、肉体的な痛みなど大したものではなかろうと思えるからだ。
恋人の後を追って身投げするなど、客観的に見れば余りに感傷的であり、愚行と言われても反論のしようは無い。彼女の分までしっかり生きることが真の供養になるとか、生きてさえいればまた良い事もあるとかいう言説も、まあ頷けるところはある。
だが俺にとってはもう生きること自体が苦痛なのだ。張り合いが無いのだ。無論、所詮俺も一人の男、しばらくこの傷心を耐えればまた新たな伴侶を見つけられる可能性が皆無ではないし、それがそう遠い日でないとは言い切れない。
しかし何時ともしれない将来に慰めがあるからといって、今の痛みが無くなるわけではない。死んでしまった彼女を想うのと同時に、俺は孤独のもたらす苦痛から逃れたいと思っていた。
死後の世界なんて信じちゃいないがそれでも、少しでもイヴの近くにいたいと願っていたのだ。
風鳴に耳を傾けていると、不意に突風が俺の背中に吹きつけた。バランスを崩し、虚空へと身体が傾く。
両脚が反射的に地面を踏みしめて大地に留まろうとしたが、しかし俺は自分の身体を落ちるに任せた。ちょっと意識して体重を前方に向けると、すぐに引力は全身を捕らえる。
風に押し流されるようにして、俺の足裏は大地を離れた。そのまま、眼下の深い青へ向かって急降下していく。強い加速度と衝撃で、視界が暗くなっていく。
完全に意識を失う直前、焦がれて止まない声を聞いたような気がした。
誰かの指が頬に触れる感触で眼を覚ました。
崖から落ちた以後の記憶が無い。高いところから飛び降りたはずの俺は一体どうしてしまったんだ、まさかここは、存在しないはずの死後の世界かと訝しんでいると、上から声が響いた。
「やっと起きた……!」
重い瞼を持ち上げて、ぼやけた視界を探る。焦点が合った先に居たのは、懐かしい顔。生きている間は二度と見られないと信じていた、愛しい恋人だった。
「イヴ……!? お前、どうして……」
「あなたを置いて、死ねないよ。私たちはずっと一緒だって、前に言ったじゃない」
愛しあった後、ピロートークでの言葉を平時に持ち出されることに酷い羞恥を覚えるが、今はそんな事どうでもいい。
一目見たいと願い続け、もう会えないなら生きる意味もないとまで思いつめた相手が、目の前に居る。仰向けに寝転んだ俺を見下ろすその顔を、
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