幸福論

 雪山を知る人間は事あるごとに、雪山を舐めるな、などというが、そんな言葉で雪山の恐ろしさを伝えられると考えること自体が雪山に対する冒涜ではないのかと、今まさに雪山に殺されんとしている俺、七郎は考えた。
 いつものように天候を見計らい、兎あたりの無難な獲物を狩っていたはずが、俄に天候が崩れ、視界は吹雪で塞がれ、進むことも戻る事もできなくなってしまったこの状況から考えるに、雪山とはそれ自体が定期的な贄を欲する神か何かではないのかと思うのだ。
 このままじっと止まっていても助けが来るアテはないし、そう簡単に吹雪が止むとも思えない。勿論食料や火の用意もない。仕方なく、半ばヤケクソで俺は歩み始めた。依然として視界は利かないし方角もさっぱりわからないため、生き残るという点においてはほとんど無意味、むしろ体力を消耗する分愚行とすら言える行動なのだが、何もしないでただ座して死を待つというのもぞっとしない。
 俺にはまだ動かせる一対の脚があるのだから、悲観することはない。そう無理にも自分を奮い立たせ小一時間ほど歩き続けた頃だろうか。
 吹雪の勢いが幾分弱まり、ひらけた視界の向こうに、一軒の山小屋のようなものが見えた。
 地獄で仏とはまさにこの事。誰の物かは知らないが、取り敢えず天気が持ち直すまで匿ってもらうことにしよう。もし地図でも置いてあれば僥倖だ。
 近づいていくにつれ、その小屋の中には既に人が居るらしいことが分かった。俺と同じような遭難者か、もともとこの家に住んでいる人なのかは分からないが、ひとまず風雨を防げそうなことに俺は何よりも安堵した。
 木戸を叩くと、すぐに扉が開き、眼を見張るような美女が俺を出迎えた。

「吹雪のせいで帰れなくなってしまったのだ。しばらくここに置いてもらえないだろうか」

 そう頼むと、豪雪地帯として名高いこの地の雪よりも白く澄んだ肌のその女は、微かに微笑むと

「はい。どうぞ中へ」

 と、快く俺を迎え入れてくれたのだった。


 女はこの家で、ずっと一人で暮らしているらしい。そんなところに男の俺が邪魔していいものかとも思ったのだが、その女 -六花と名乗った- は、むしろ久しぶりに現れた来訪者を喜んでいるようだった。
 なんと料理を作って饗してくれるというので、色々な心苦しさを抱えながらも、自分で思う以上に消耗していたこの体を休めていると、六花がこちらに声をかけてきた。
 
「七郎さんは、このあたりの猟師さんなのですよね?」
「ああ。麓に小さな家を持っている。取った獲物を自分で食べたり、村へ持って行って野菜と交換したりして、もう何年も生活している」
「そうでしたか。では、この吹雪には驚いたでしょう。ここ何十年も、こんなに急に天気が崩れることはありませんでしたから」
「全くだ。一時は死を覚悟したよ。六花さんの家がなければ、今頃俺はこの世のものでなかったろうな」
「そんな怖いことを言わないでくださいな」

 六花が俺に作ってくれた晩飯は、素朴ながらも暖かく、疲弊した俺の体を大いに癒してくれた。地獄で仏だといったが、仏というより女神様、観音様だな、これは。
 食事を頂き、体力を回復するにはまず食事、次に睡眠ということで、俺はまだ眠そうでない六花よりも一足先に眠らせてもらおうと思ったのだが、そこを制止されてしまった。

「七郎様。折り入って一つ、お願いがございます」
「願い?六花さんは俺の命の恩人故、出来ることなら何でもして差し上げたいが……出来れば明日にしてはくれまいか?」
「いいえ、今でなければならないのです。七郎様、もしよろしければ、今晩私と同衾して頂けないでしょうか?」

 同衾、とは……?まさか、この家には布団が一組しか無いから、それを二人で使おうとか、そういう話なのだろうか。
 
「ふ、布団が足りないというなら、俺は別に床で寝ても構わないのだが」
「もう、惚けないでくださいまし。こんな山の中で、女の一人寝がどれほど寂しいものか、七郎様はご存知なのですか」
「そうは言っても、そなたのような年頃の美人が、考えなしに男と寝るというのも」
「私だって、考えなしにこんなことを言っているのではありません。七郎様に抱いて頂きたいから、こうして恥を忍んでお願いしているのです」

 これは妙なことになった。俺としても、抜けるような肌の麗人を抱けるというこの機会をみすみす逃がしたくはないのだが、しかしそれ以上に、今日会ったばかりの人間同士が肌を重ねるということに抵抗を感じる。武家の政略結婚でもあるまいし、女が、ましてや十人が十人とも美しいと評するであろう美女が、まるで自分を安売りするような事を聞くのも辛いことだった。大体、子どもができたらどうするつもりなのだ。

「六花さんにそのようなことを言ってもらえるのは嬉しいが……生憎、
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