痴人の毒

 現代日本の、とある都市で。
 若者たち、特に思春期の女性の間で、奇妙な噂が広がっていた。夜中に一人で、ある行動をとると、恋の悩みが解決するというのだ。
 金曜の深夜、一人でボールに水を張り、絵の具なり墨汁なりで黒く染め、机の上に置く。
 黒い水面を眺めながら、自分の悩み、特に恋の悩みを強く念じ、悩みを解決したいと、新たな自分と化して状況を打ち破りたいと強く念ずれば、そこに正体不明の何者かが現れ、解決策を授けてくれるというのだ。
 おまじないとも魔術とも呼べないような曖昧な、要領を得ない感じのこの行動だが、しかしその胡散臭さに反して、恋に悩む女子たちの間で急速に広まりつつあった。
 もともと若い女性がオカルトの類を好みやすいというのを加味しても、ちょっとありえない勢いであった。その「儀式」が、星座占いのような気休めの物ではなく、本当に効果があるとしか考えられない程に。
 深夜、自室で、ボウルに張った墨汁をまんじりともせずに眺めている女子高生、本町 霧絵もその「儀式」を試してみた何番目かの女子高生であった。
 やはり他の体験者と同じく、恋愛に関する悩みを抱えていた彼女は、中学の同級生、かつて親しくしていた女友達の一人からの強い勧めによってこれを試してみる気になったのだった。
 理知的な双眸と、それによく似合った、細めのレンズに上半分のみのハーフフレーム眼鏡。綺麗に整えられたさらさらの黒髪と相まって、見るからに折り目正しい「正統派委員長」といった風貌である。
 見た目の与える印象に違わず、現実的な思考を好みオカルトや占いの類は好まない霧絵であったが、奨めてきた友人のそのあまりに熱心な様子と、彼女が零した「来てくれる」という言葉にどこか引っかかるものを感じ、駄目もとで試してみる気になったのだった。
 霧絵の周りでも、この「儀式」の話はしばしば聞かれたし、何も起こらなかったとしても食器が少し汚れるだけの話だ。
 鬼が出るか蛇が出るか、はたまたジョーカー様でも現れるか、と好奇心半分で、黒い水を用意して五分ほど経った頃。
 悩みを思い浮かべながらじっと見つめていた水面が、俄にぼこぼこと音を立てて泡立ち始めた。温めてもいないのにひとりでに沸騰し出したかのような異常に、思わず後ずさる霧絵。水面は更に激しく暴れだし、ついに溢れる、と見えた瞬間。
 眼前に、怖いほどの美貌を備えた異形の女が出現していた。 
 雪の様に白い肌、血のように真っ赤な瞳。凄絶、とすら言えるほどの、穢れ無き真っ白な髪。この世のどんな生き物にも似ていない、角や尾や翼を生やした、悪魔とも天使ともつかぬその女は、謎の力によって浮遊する黒い球体に腰掛けていた。

「こんにちは。悩みがあるようね?」

 優しい声で、女は霧絵に語りかけた。まさか本当に儀式が成功するとは、ましてこんな、この世のものとは思えぬ傑出した美女が現れるとは思わなかった彼女は、言葉を失いながらも、その問いに頷いた。

「うんうん、そうよね。だから、私を呼んだのだものね。私がその悩みを解決してあげられるということも、知っているのよね。 ……ふふ。話が早くて、何よりだわ」
「あの……あなたは、一体? あんな、適当なので、本当によかったんですか……?」
「ああ、手順は何でもいいのよ。悩める女子が居るっていう、単なる目印なんだから、あれは」

 まるで『人間が何処で何をしているのか常に把握している』かのような事を言って、女は球体から降りた。目線を合わせ、更に語りかける。

「さあ、私に話してごらんなさい。あなたの苦しみを」
「……はい」

 異常なシチュエーションに疑問も抱かず、霧絵は言われるままに告白し始めた。

 霧絵には、付き合っている男が居た。
 名を、姉宮 礼司という。霧絵とは同級生で、彼女の方からの申出て、二人は恋人関係を始めた。
 そこまではいい。どこにでもいる普通の高校生カップルが一組生まれたというだけの話なのだが、しかし霧絵の苦しみは此処から始まった。
 晴れて恋人同士となったことで、礼司に対する欲情、独占欲が少しは収まるかと思っていたのに、狂おしい気持ちは収まるどころか日を追うごとに強まる一方なのだ。
 自分以外の女を見ないで欲しい。自分以外の女に触れないで欲しい。恋人を持つ女なら多少なりとも持っているこの感情は、しかし霧絵の体験したことのない激しさで、純な心を苛んだ。
 二人で歩いている時、礼司がちらりと別の女のほうを見た。
 自分と話しているときに、別の女から声を掛けられ、振り向いた。
 そんな些細な、取るに足らない事でさえ、心臓がきりきりと痛み眼輪筋が引き攣る。
 あまり嫉妬深い女は嫌われると分かっていた彼女は、努めてその痛みを隠そうとしたが、忍べば忍ぶほど増大するのが感情というやつである。
 
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