「誰かを騙そうとしているやつを騙すことほど簡単なことはない」という教訓は、確かに貴重なものではあったが、しかし自分の身をもってしてまで学びたくはなかった。
茶屋で、一見地味な、ごくありふれた皿に盛られた餌を食っている猫を見かけたのがそもそもの発端。
素人目には単なる皿に映るであろうその逸品が、その実、高名な陶芸家の手になる物であると見抜いてしまった瞬間、俺は罠に掛かっていたのだ。
直接皿をくれなどと言っては怪しまれよう、と賢しらに、店主に猫を譲ってくれと交渉を持ちかける。なんのかんのと渋る店主を説き伏せ、結局二両で手を打つこととなった。
交渉がまとまり、さあ皿を持って行こうとした瞬間。その皿は貴重なものだから持って行くなと言われた。
驚きのあまり、じゃあ何故、貴重なものと分かっていて猫の餌やりに使っていたのだと聞いたところ、店主の答えて曰く。
「こうしておりますと、時々猫が二両で売れます」
何のことはない。かつがれていたのは俺の方だったというわけである。
そうして、二両の金にはとても釣合いそうにない、ごく平凡な茶トラの猫を両手に抱えて家に連れ帰らざるを得なくなってしまったわけだ。
もともと欲しくて買った猫でもないし、その辺に捨ててしまおうかとも思ったのだが、やはり生き物をモノの様に打ち捨てるというのは良心が痛む。
腕の中で、妙に意味ありげにこちらをじっ……と見上げられると、なんだか縋られているような気もして、ますます気が咎める。
気ままな独身ぐらし、愛玩動物の一匹飼うくらい誰に憚るものでもないし、庭にでも放しておけば手前勝手な猫の事、何処へなり好きなところへ行くだろう、などと大損失に落ち込む俺自身に言い聞かせ、ふらふらと家路に着いた。
帰る途中、袋も籠もなかったため、件の猫を両手で抱えて帰ることとなったが、流石は元飼い猫というべきか、両手で持ち運ばれていても暴れたり逃げようとしたりすることは無い。
時折、身をよじるようにして体勢を変えたりはしていたが、動きに合わせて抱えなおしてやると、ふっと脱力し、気が抜けたように大人しくなるのだ。
木造平屋の我が家に辿り着き、猫を地面に降ろしてやると、チラチラとこちらの様子を伺いながら土間の隅へと歩いて行った。座り込み、何処か粘っこい、値踏みするような目で俺の方を見つめるその眼光が、やけに印象に残った。
「……猫相手に、馬鹿か俺は。晩飯でも食って、さっさと寝ちまおう」
吐き捨てて、台所に残った米と有り合わせの野菜で一食でっち上げることにした。
自分の食い物は自分で用意せねばならんのが独り身の悲しさ。余程上手に作れない限り、自分で作った料理を自分で食っても大して楽しくもない。
平々凡々な出来の、旨くもなく不味くもない、無味乾燥な食事の並んだちゃぶ台に一人向かっていると、いつの間にか家に上がってきていた猫がにゃあと鳴いた。
「なんだ。お前も腹が減ったのか」
にやああー、という返事が妙に人間臭く、思わず吹き出してしまった。余った皿の一枚(これは本当にただの皿だ)に鰹節を山盛りにして出してやると、まさしく猫まっしぐら。
しゃっく、しゃくと小気味良い音を立てて、貧相な食事を文句も言わず楽しむ新しい同居人を見ていると、味気ない夕食も何処か色づいたように感じられた。
「美味いか?」
答えを期待せずに聞いてみると、意外にも猫は律儀に食事を中止し、にゃあーと返事をしてくれた。何が言いたかったのか、猫語が分かる筈も無い俺だが、少なくとも一時安らぐことはできた。
「……二両取られたのは痛かったが、これはこれで悪くないな」
なーお、という鳴き声が、その独り言に賛同するように聞こえたのは、俺の気のせいだっただろうか。
食事を終わらせ食器を片付け、することもないしそれ以上に金が無いしで、さっさと布団を敷いて寝ようとしたところ。長らく洗っていない敷き布団の、隅の油汚れがその上に寝転がる気を失せさせてくれた。
男の一人暮らしなら何処もこんなものかもしれないが……俺が外で金を稼いでくる間、家内のことを片付けてくれる人でも居れば、毎日綺麗な布団で眠れるのになあ、などと思うと、急に一人寝が寂しくなってきた。
昼、まんまと出し抜かれ、気弱になっていたせいもあったろう、誰にともなく、俺はつぶやいていた。
「……ああ、嫁さん欲しいなあ」
「私がいるじゃニャいか!」
「!?」
何だ。若い女の声だったが、まさか物取りか。幸か不幸か、今の我が家には何も盗むべきものなど無いというのに。
「誰だ!」
「自分で買っておいて、誰だ、も無いニャ。この猫、見忘れたとは言わさんニャー」
部屋の向こうから現れたのは、裾の短い浴衣のようなものを身につけた、奇妙な女だった。
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