黄昏時。
もうすぐ春が来ようというのに、山の上からこの街に吹き下ろす冷たい風は、ひと月前と変わらぬ温度でフィルを苛んでいた。
両肩に羽織った丈の長い、安い薄手の外套は、体温保持の役目を全くと言っていいほど果たしてくれない。
徒に嵩張り、それでいて作りや縫製の荒いそのコートは、着る者に「安物買いの銭失い」という言い回しの意味を教え込むために作られたかのようだった。
役に立たないからと言って道端に捨てるわけにもいかず、ただ一時も早く暖を取りたい一心で家路を急いでいたフィルは、不意に何者かが袖を引くのを感じた。
物売りか客引きか、はたまた乞食か。煩わしい思いで脇を見下ろすと、そこに居たのは意外な人物だった。
腰にボロ布を、胸に黒いベルトのようなものをそれぞれ巻きつけた、極めて露出度の高い女である。
胸の膨らみは非常に小さく(それ故に革の帯二本で、最低限隠さねばならない箇所は隠せていた)、胴や腿の肉付きも薄い。
細くくびれた腰、白く滑らかで、壊れそうなほど美しい鎖骨。片手で抱きしめられそうな、たおやかな両の肩。
そんな如何にも少女らしい肉体と、まるで娼婦か、いかがわしい倶楽部の女王役のような装いはひどくアンバランスで、言い知れぬ背徳感を見るものに与えていた……が、それよりも、もっと特徴的な部分が、その娘にはあった。
頭の上についた、一対の大きな耳。剛毛に覆われ鋭い爪の生えた、獣じみた両脚。何より、傘の骨のように細く華奢で、皮膜のような翼を備えた両腕。明らかに人ではない、魔物娘である。
フィルの住むこの街は特に魔物たちを排斥しておらず、通りでそれら人外の者達を見る機会も普通にある。その為、彼にはその少女がワーバットという種族に属することがわかった。
コウモリらしく、普段は洞窟の奥で暮らしている筈のワーバットが、一体何故こんな街中にいるのかということをまず疑問に思ったフィルだったが、袖を両手でぎゅっと掴まれていてはどうにもならない。
向き直って、話を聞いてみる他、無いのだった。
「……俺に、何か用か?」
「……」
問いかけてみても、そのワーバットは俯いて答えない。よく見ると、全身が細かく震えているようだった。
この寒空の下、半裸に近い格好でいたなら無理も無いことか、と思いかけるも、寒いなら洞窟から出てこなければいいだけの筈である。
押し黙ってただ縋りつく少女を無下に振り払う気にもなれず、仕方なくフィルは重ねて問うた。
「あんた、ワーバットだろ? ……なんでこんなとこまで出てきてるんだ?」
「……うちが……洞窟が、崩れて……」
「崩れた?この前の、大雨でか?」
先日降った雨は例になく激しく、一部では山崩れや土砂崩れも起きたという話だった。
フィル自身は、自分の周囲に影響がほぼ無かったこともあり、特に気にしては居なかったのだが、思いも寄らないところで被害が出ていたらしい。
「住処を追われてきたわけか」
「……でも、外……怖くて……」
「なるほど、蝙蝠だものな」
暗いところでの活動に特化した生物は、明るい外に出た途端、身動きできなくなるという。
眼下の少女も、その例外ではないらしい。
しかし、事情を理解したところでフィルにはどうしようもないことである。心苦しいが、なんとか手を離してもらえないかと袖に目をやった時。
買って間もないというのに、もう解れ始めている外套のカフスが目に入った。
「……どうせ、寒さを防ぐ役には立たんしな」
そう呟いて、フィルは羽織っていた上着を脱いだ。そのまま、太陽の光に怯えて震えるワーバットの少女に、頭から掛けてやる。彼の突然の行動に意表を突かれた様子の娘に、言った。
「それをかぶっていれば、少しはマシだろう。後もう少し、夜が来るまで、我慢しな」
背を向け、身軽になったフィルは家路に着こうとする。脚を踏み出そうとすると、またしても体が引っ張られた。
「……?」
外套をかぶったままのワーバットが、今度は服の裾を掴んでいた。
長い前髪の奥、黒く静かな瞳が、フィルをじっ……と見上げる。
「……何だ」
「……」
少女は何も言わず、ただフィルの顔を見据え続ける。薄い青紫の髪に隠されたその両の眼は、ひたすらに何かを訴えていた。
「……仕方ないな」
このままずっとこうしているわけにもいかない、と彼はそっとワーバットの手をとった。
大人の男の、大きな手に掴まれ、少女の矮躯がぴくんと跳ねる。
落ち着かせるように、頭の上にもう一方の手を置いて、できるだけ穏やかにフィルは言った。
「付いて来いよ。部屋なら余ってる」
言葉の意味を解した少女の表情は、見る間に明るくなっていった。
ヴェルマと名乗ったその少女を家に連れ帰り、フィルは夕食を
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