夜哭き峠、鬼火の怪

弥彦は実に食欲を掻き立てる香りに目を覚ました。勝手場で弥彦の妻であるお華が煮炊きをしている。どうやら味噌汁の匂いで目覚めたらしい。弥彦は昨夜の情事で気だるさを訴える体に喝を入れると、布団を畳み、押し入れに突っ込んだ。そして、一つ伸びをした後、勝手場で働く妻の下へ向かった。

「お華、何か手伝うことはあるかい?」
「いえいえ、気持ちだけでも充分ですよ弥彦様。ゆるりとお待ちください」

勝手場を仕切る者にそう言われてしまうといかんともしがたく、弥彦はしぶしぶ卓に着いた。しかし、妻が甲斐甲斐しく働く傍らで何もしないというのは憚られるせいか、箪笥から比較的に綺麗な手拭いを引っ張り出すと長屋裏の井戸へ行った。
長屋の井戸は共用の物であるため、誰かしらと出会うことも多々ある。弥彦が汲み取った水で濡らした手拭いを絞っていると、隣の部屋の夫婦がやって来た。はだけた着物に手桶、手拭いのいでたちのため、情事の後の体を拭いに来たと見られた。奥方の妖狐、尾の数は2本と少ない、が弥彦の隣に立つと言った。

「昨夜は当てられてしまいましたわ」

その一言で全てを察した弥彦は、照れ隠しに咳払いをすると強く手拭いを絞り、そそくさと自分の部屋へ逃げ帰った。


「弥彦様、どちらへ行かれていたですか?」
「何もかも任せきりなのも悪いので、卓ぐらい拭こうと手拭いを濡らしてきた所だ」
「ありがとうございます。ですが、今度からは一言、お華に言ってくださいませ」
「すまんな、そうしよう」

弥彦が部屋へ入ろうとした所、ちょうどお華が長屋から顔を出して、少しだけ不機嫌そうに言った。弥彦はお華に一言謝った後、彼女の頭をくしゃりと撫でると部屋へ入った。お華はこそばゆそうに撫でられた後、手櫛で手早く癖を直すと弥彦を追った。


朝食は椀に山と盛られた白飯、大振りに切られた根深の汁、大根の香の物であった。二人は卓に着くと、朝食をとった。汁は熱かったが、根深の甘さと味噌の塩気の塩梅が良く、非常に旨いものだった。弥彦は根深の汁で白飯を二杯、香の物で一杯平らげると満足気に息を吐いた。すると奥からお華が盆に湯呑みをのせてやってくる。渋いお茶であった。お華もお茶を飲むと一心地着いたのかほうと息を吐いた。暫く二人静かにだらりと過ごしていると、弥彦がおもむろに話しだした。

「ここの所、何やら夜哭き峠で鬼火を見たというのが何人もいるらしい」
「そうでごさいますか。狐火ならば魔物娘におりますが、鬼火は聞いたことがございませんね」

夜哭き峠とは、弥彦たちの住む町と隣町を繋ぐ峠である。なんでも、昔、想い人に裏切られた女が泣きに泣いたのちに非業の死を遂げ、鬼へと変じ、夜な夜な慟哭の声が聞こえたという逸話からそう呼ばれているのだとか。しかしながら、弥彦は今の今まで慟哭など聞いた試しは無かった。魔物娘が現れても、人の世の世迷い言は変わらないものであった。

「間近に見た者は居ないそうだが、丑三つ時になると赤い火の玉が現れ、峠を越える者の後を憑けて行き、峠を越えた辺りでふっと消えてしまうらしい」
「まこと面妖な話ですこと」
「魔物娘の類いであれば、まず危害を加えることは無いと思うが、物取りかもしれん。お華も気を付けておくれ」
「そのようにいたします。ですが、このお華、弥彦様さえいれば怖い物などありませんよ」

弥彦は赤面して身動ぎをすると、お茶のお代わりを催促した。お華は分かりましたと、ころころと笑いながら言うと、弥彦の湯呑みを取って勝手場へ行った。


その夜、夜哭き峠に鬼火が現れた。暗闇をぼんやりと照らす火影がうっすらと人影を映し出す。まるで風に揺れる行灯の火のような儚いそれは、一陣の風に煽られて掻き消された。後には少女の寂しさを訴える声が残ったが、聞く相手のいない怨み節は月の無い夜空に溶けて消えた。


それから幾日かたった日のこと。お華を連れて隣町まで傘を売りに出かけた弥彦は、隣町で夕食を済ませ、夜哭き峠に差し掛かっていた。お華との夕食に時間を忘れたせいか、飯屋を出た時は既に辺りが暗く、夜哭き峠の手前で丑三つ時に差し掛かっていた。

「まさかこんな時間になってしまうとは…うん?」
「楽しい時間はあっという間なのですね…あれは…」

峠を半ばほど過ぎた頃だろうか、二人は後ろを着いてくる灯りに気付いた。ゆらゆらと揺れるそれは、付かず離れずの距離を保っているように思えた。

「お華、某の後ろに」
「ですが弥彦様、あの灯りは…」

弥彦はお華を自分の後ろに隠すと、無手のままで身構えた。二人が足を止めたため動きを止めていた灯りであったが、今はゆっくりとだが近付いている。薄ぼんやりとした灯りであったが、近付いていくにつれ、その灯りの主を映し出した。三つ巴の模様のある袂に腕を通し、丈の短い履き物に脚を通した姿を
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