稲荷亭で弥彦と一人の男が話している。弥彦と話しているこの男、腰に十手を差していることから同心と分かる。そしてこの男は、火盗改めの頭の下で乱波衆捕縛に奔走した一人である同心の熊こと熊八だ。
「熊八殿、相談事とは…」
「それなんだがなあ…」
熊八は溜息をつくと料理に手を伸ばした。獅子唐に竹の串を打って焼き、鰹節を散らして醤油をさっと回しかけた物だ。獅子唐の青い香りに鰹節の風味と醤油の塩気が良い塩梅である。熊八は一串の半分ほどを一口で食べると、猪口の酒を飲み干した。
「大の男がこんな事を言うと、何とも格好が付かないんだがよ…どうにも、俺は惚れた女が出来たみてえなんだ…」
「いやはや、良い事ではありませぬか。して、お相手は?」
「遊廓の烏羽太夫ってんだ」
「太夫…」
魔物娘の妻を持つため遊廓に行くつもりは無く、まかり間違ってもお華が許可するはずが無い為に、弥彦は遊廓の事は要領を得なかった。しかし、熊八の惚れた女性がそれはもう位の高い人物だということは分かる。そのため、相談に乗ってほしいのは理解出来たが、頼む相手を間違えているのではと弥彦は考えた。
「太夫が相手となると、さすがに某には…」
「いや、こればっかりは俺の知る限りじゃ、お前さんにしか頼めねえんだ」
そう話す熊八はいたって真面目な顔つきであり、とても冗談を言っている様子では無い。
「何故、某にしか頼めぬので…」
「うーむ…確証はないんだが、烏羽太夫は人じゃないと俺は思ってんだ。烏羽太夫には人にはない色香がある」
この一言に弥彦は得心した。人ならざる者、つまるところ魔物娘に惚れたとあれば、魔物娘を妻に持つ者に相談するのは道理である。また、前の乱波衆を組み込んだという噂こそあれど、火盗改めは基本が男所帯であるため、からかいの種になる事を避ける意味合いもあったのかもしれない。
弥彦は串焼きを取って獅子唐を一つかじると、猪口を傾けて酒を舐めた。口に残った獅子唐と鰹節の香りが酒に流される。暫しその余韻を楽しんだ弥彦は、疑問に思った事を聞いた。
「そもそも、熊八殿はどこでその烏羽太夫と…」
「…おい、笑うんじゃあないぞ?」
熊八はもぞもぞと身動ぎし、辺りの様子を窺うと、訥々と語りだした。
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その日、熊八は受持ちの区画の見廻りをしていた。十手片手に裏通りを歩いたり、変わった事は無かったかと所の者に聞いて回ったりしていると、茶店の前で何とも言えない香りを嗅いだ。仕事柄、一度だけ嗅いだことのある渡来品の香り。霧の大陸の高価な香である麝香の様な甘い香りだった。鼻を鳴らしながら辺りを見回していた熊八は、茶店の二階に目をやると己の目を疑った。
そこには熊八の知る女が束になってかかっても、到底敵わないと思う程の美女が居た。悩ましげに垂れた眉と眼差し、眼の下の黒子、そして何よりも艶やかな黒髪が熊八を虜にしたのだ。その黒髪が風に揺れると、熊八の鼻を甘い香りがくすぐった。
「…何て別嬪さんだ」
それ以降、言葉を失ったかのように熊八は二階の美女を見つめていた。美女は絹の様な前髪を白く細い指で梳いている。すると、はたと目が合った。暫し見つめ合った後に美女が艶やかに微笑むと、熊八は初な童の様に顔を赤くした。熊八は慌てて茶店に逃げ込むと、茶店の主に詰め寄った。
「二階にいるあの別嬪さんは誰なんだ!?」
「あ、あれは遊廓の烏羽太夫ってんですよ。彼女が何かしたんですかい?」
「いや、何もしちゃいないよ…。そうか、烏羽太夫ってえのか…」
正に、名は体を表すって奴だなんて一人納得する熊八は、うんうんと頷き、茶店の主に邪魔したな、と言うと店を出た。ちらと二階を見ると烏羽太夫も熊八を見ていたらしく、再び目が合う事となった。それに焦った熊八は、逃げる様にその場を去ったのだった。
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「つまり、熊八殿は烏羽太夫を一目見て惚れてしまったと…」
「…それが悪いか!?」
むきになって猪口を何度も空にする熊八を見て、弥彦は猪口を置くと肩を震わせる。
「はっはっはっは!初な童そのものではないか!」
「こいつ、笑いやがったな!」
「すまぬすまぬ。悪気は無いのだが、つい、な…」
「ったく、冗談じゃねえ…」
「侘びと言っては何だが、酒の一杯でも奢ろう。ああ、篠殿、酒を一つと…塩茹でにした蚕豆を頼み申す」
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かの茶店の二階にある座敷に熊八が居た。座敷の下座に案内された熊八は、落ち着き無く何度も窓の外を見ている。手には中身の無くなった胴巻き。熊八は金になりそうな持ち物を全て質に出し、貯めに貯めた給金の全てを合わせて取り次ぎの為に店に払った。そのかいあってか、座敷の卓に
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