黒髪愛絡

 それは、陽光も穏やかな巳三つ時だった。
 青く晴れ上がる空の中でも小さな人里の村は閑散としている。と言うのも、この時刻ともなれば早々暇な者などいない。
 それでもどこか穏やかな雰囲気が村にあるのは、それだけこの場所が平和である証を示していた。
 そんな中、とある民家の戸が、がらりと開く。
 中から出てきたのは一人の少年。まだ元服を迎えようとしているか否か、の年頃である。
 後ろ手に戸を閉めたところで、目の前に何か落ちているのに気が付いた。
 それは小豆色の小さな布地だった。小さな手拭のようなものだろうか。
 梅の花が小さく模様付けされたそれは、手に持った質感だけで、高価なものだと思わせるほどだった。
 誰のものかと周りを見渡せば、すこしだけ距離の離れたところに、黒い塊があった。
 まるでそこにあるだけで全てを飲み込んでしまうような、漆黒の塊が奥へとゆっくり進んでいる。
 あまりの異質な姿に驚くが、声を上げないように息を呑む。
 その瞬間、黒い塊から、自分が手に持っている布地と同じ小豆色の物がちらりと見えた。
 目を凝らして見れば、その黒い物は地面に近づくにつれて、いくつにも分かれていた。
 まるで生き物のように蠢いてはいるが、その漆黒は引きずられているだけのようにも見える。
 ちらちらと見え隠れする小豆色に、確証は無いがどこか確信めいた物を感じて、少年はそれに駆け足で近づき、距離を詰めたところで――意を決して声をかけた。
「……? あら……」
 少年の声にそれはぴたりと止まると、何と声を上げて振り返ってきた。
 その姿に、今度は別の意味で息を呑む。
 そこにいたのは、小豆色の着物姿に身を包んだ妙齢の女性であった。
 手に持った布地と同じ、梅の花で模様付けされたその着物により、確証と共に確信を得る。
 そして、どうやら漆黒の塊の正体は彼女の長い長い黒髪だったらしい。
 さらに距離を詰めて近寄ってみると、その黒髪は太陽の光に反射して艶を放っていることに気が付いた。
「これは可愛い殿方様……何か御用ですか?」
 顔半分が黒髪を覆っていても気にした様子も無く、女性は首を傾げる。
 その動きに伴い、彼女の白い首も視界に移った。
 黒い髪からの白い肌に、どきりと胸が高鳴る。
 その高鳴りを誤魔化すように、手に持っている布地を差し出した。
「あら……これはわたくしのです……これをどこで?」
 その問いに、少年が自分の家を指差しながら、家の前で落ちていたのを拾った事を話した。
 女性は話を聞いたあと、彼が指を差した家と、彼自身を二度三度見比べると、目を細めながら布地を両手で受け取る。
「そうでしたか……くすっ……落としてしまったのを拾っていただいたのですね」
 布地と共に少年の手にも優しく触れ、顔を近づけてくる。
 近く。もっと近く。さらに近く。
 視界が女性の顔で埋まってしまうほどに。
 彼女の目の下に、ほくろがあった。俗にいう泣きぼくろという物であるが、そんなことは大したことではない。
「……ふふっ……」
 顔を逸らすことはおろか、目を逸らすことも出来ない。
 まるで金縛りにあってしまったかのようだった。
 黒い髪よりも暗い、彼女の瞳が少しだけ妖しく光ったような気がした。
 布地を持った手の甲や指に、彼女の指先が絡みつくように撫で回る。
 ぞわぞわとした感覚が背筋に走り、自らの心までもが彼女に絡みついて囚われていくようだった。
 ――そして。
「ありがとうございます……優しくて、可愛い殿方様」
 その言葉と共に、穏やかににっこりと微笑んだかと思えば。
 女性がスッと少年から距離を離す。
 少年が持っていた、着物と同じ小豆色の布地を手にしながら。
 その瞬間、後ろ側で戸の開く音がした。
 女性は既に、背を向けて歩き出している。
 後ろから聞こえてくる、自分を呼ぶ声がどこか遠くのことにように感じていた。
 小さくなっていくその黒い塊を、ただただ眺めていることしか出来ず。
 その黒い塊が向かう先は――今は誰にも使われていない空き家だった。

 それから、あの女性はこの村に住むことになったようである。
 以前は騒がしい場所で生活を営んでいたので、自然に囲まれた場所で静かに穏やかで過ごしたいということであった。
 とは言え、あれだけ綺麗で特徴的な黒髪を持ち、どこか妖艶な雰囲気を持った女性となれば、村中で注目の的になるのも仕方のないことだろう。
 村の男性は彼女自身に、女性はその綺麗な黒髪に憧れを抱き、この小さな人里の話題の中心になるのは当然といえば当然であった。
 どこか亡国の姫君ではないかだの、頂点に立つ遊女であったが策略に遭ってその場にいれなくなっただの、彼女の経緯に噂をするものも少なくはない。
 しかし、その邪推とも言える噂も、時が経つに連
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