今日も筆が進まない。
中途半端に風景が描かれたカンパスを前にして、レクトは小さくため息をつく。視線を別のところに向ければ、広い部屋のあちこちにカンパスが置かれている。そこに描かれているものは様々だが、そのどれもが中途半端なところで放置され、完成してるものは一つとしてない。
「はあ……」
描かなければ生活費を稼げないというのに、いざ描こうにも筆が進まない。
なんとか街路樹を書き終えたところでレクトは完全に筆を置き、アトリエを出た。向かう先は居間だ。調子が悪い時はまったく別のことをして気分を変える。これが師匠の教えだった。それを忠実に守るべく、レクトはのんびりと歩く。居間のソファで軽く昼寝をすれば気分も一新、絵の調子もよくなるだろうとの考えだった。
そんなわけでマイペースに歩いていたレクトだったが、何気なく目を向けた窓ガラスが薄汚れていることに気付いた。
「うーん、汚れてるなぁ……」
見れば、汚れているのはそこだけではなく、窓という窓全てが似たような感じで汚れていた。掃除をしていなかった結果がとうとう目に見える形で現れたらしい。とはいえ、レクトにも掃除をしなかったことについては言い分があった。
レクトが住むアトリエ付きのこの家は、家というよりは小さな屋敷であり、掃除をするにはあまりにも大きすぎたのだ。元々は彼の師が絵を描いて売ったお金で建てたものであり、レクトは同居させてもらっていただけだった。しかし、ある日リャナンシーが現れ、師匠と恋仲となり、挙句の果てに「俺達はこんな古臭い家を出て新しい愛の巣を探しに行く。そんなわけでここはお前にやる。後は頑張れ!」と言い残し、レクトに屋敷を押し付けて蒸発した。
その日以来、レクトはこの屋敷に一人きりなのだ。仮に師匠がいたところでも手に余るこの屋敷を、レクト一人で掃除して綺麗に維持しろというのが無理な話だった。そうでなくとも、一日の大半を絵に費やし、残りの時間は食事や睡眠で占められているのだ。掃除に割ける時間などなかった。
「しかし、これは目に余るな……」
窓を指でなぞってみると、その部分だけ埃が落ちて綺麗になる。それを見てつい悪戯心で指が動く。結果、数秒で窓に大雑把なデザインのチューリップが描かれた。
「ふむ。たまには掃除でもしようかな」
昼寝をするつもりだったが、これはこれでいいかもしれないと思い、レクトは急遽予定を変更して掃除をすることにする。
「さて、道具はと……」
掃除道具は確か倉庫だったなと思い、アトリエを迂回するようにして倉庫に向かった。扉を開けると嗅ぎ慣れた塗料の匂いが鼻についた。倉庫には絵描きのための道具も一緒に保管してあるのだ。
「えーと、雑巾はと……」
探してみると雑巾はすぐに見つかった。ただ、どの雑巾も塗料を拭いたせいで青だの緑だのといったカラフルなものばかり。これで窓を拭いたら別の意味で汚れてしまう。
「うわ、雑巾を用意するところからか……」
途端にやる気が削がれるが、一度こうだと決めたら確実にやるのがレクトの性格だ。自分の部屋に戻ると町へと出かける準備を始める。
「師匠、生活破綻者ぎりぎりだったからな……」
自分のことは棚上げしてそんなことをぼやくと、レクトは町へと向かったのだった。
買い物ついでに昼も済ませるとすっかり午後だった。
「さて、今日中に終わるかな……」
間も無く到着といった距離まで来ると、屋敷の窓はいくつあったか思い出しながら玄関に向かう。そこでレクトは足を止めた。玄関前にメイド姿の女性が立っていたのだ。こちらに背を向けているその女性の腰には獣の尻尾が生えており、一目で魔物だと分かった。この地域は親魔物領なので魔物自体は珍しくないのだが、大して有名でもない絵描きのところに来るとなると話は別だ。
「あの、うちになにか用かな」
とりあえず声をかけると彼女はすぐに振り向いた。
「ああ、出かけていらっしゃったのですか。何度呼びかけても返事がないので心配しておりました」
ほっとしたように息をつき、優しげな笑みを浮かべる彼女。その可憐な微笑みにどきりとする。魔物なだけあってやはり綺麗な顔だ。思わず絵のモデルになってくれと言いそうだった。
「あー、うん、それは悪かったね? で、君はなぜここに? この屋敷には僕しかいないんだけど、何か用でも?」
「はい。本日より貴方様にお仕えさせていただきますリラといいます。どうかよろしくお願い致します」
スカートを指先で軽くつまみ、優雅に一礼してくるリラ。あまりにも自然だったのでそのままよろしくと言いそうになるレクトだったが、よくよく考えてみれば彼女の言葉には色々と問題があった。
「いやいや、使用人の募集とかしてないから」
そもそも人を雇うようなお金もない。しかし、それを見越したかのよう
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