―どれ程の時間そうしていたのだろうか。
呆然と黙りこけるエドルに痺れを切らしたのだろうか、沈黙を先に破ったのは彼女の方だった。
『ええと・・・、御身体の方はどうでしょうか?』
彼女の身体の一部分がひらひらと風に靡くように揺れながら、そう聞いてくる。
やはり美しい声をしているが、人のそれと響き方が違うのは身体の構造の違い故だろうか。
「あ―、ああ、だるさと寒気がすごいな・・・。大丈夫とは言えない・・・かも知れない」
ようやく舌が動いてくれたエドルは、必死に言葉を紡ぐ。人生で初の魔物との対話。
その胸中にあるのは驚愕と感動の混ざったものであり、意外なことに恐怖は弱かった。
トリトニアが凶暴な種では無いことを本の中の知識により知り得たから、と言うのが大きいのかもしれない。
「貴方が、助けてくれたのだろうか?だとしたら有り難う」
その言葉と同時に頭を下げる。
『ああ!そんな!・・・頭をお上げてください』
あわあわとしながらそう答えるトリトニア。
『ですが、本当に良かった・・・。貴方を見つけた時は本当に驚いたものですから・・・』
曰く、彼女はとある用事で海岸へと赴いていたらしい。その途中、気を失い海の底へと沈み行くエドルの姿を見つけたとの事。
そこから始まる悪戦苦闘。
なにせ彼女は背負えない。その背にある触手はあらゆる物に容赦なく絡みつく、トリトニアと言う種が生まれ持つ自動防衛装置。一説では魔物の中では比較的穏やかで動きが緩慢な彼女達が進化の過程で外敵から身を守るために発達させたらしいが、その目的が元は不随意での敵の撃退と言う物だけあって、その動きに関しては彼女の意志の外にあるのだ。
そんな自身の触手にエドルを曝すのは不味いと、彼女は一心不乱に身体をはためかせながら彼の元に向かうと、その身体を抱きかかえる形で必死に近くの洞窟まで運んでくれたらしい。
辺りを見回すと、どうやら自分が足を滑らせた洞窟とはまた違う場所らしい。洞窟の口は半ば海へと沈んでおり、そこ以外に外界と繋がっているのは岩の天井に走る割れ目くらいの物だ。その割れ目の間から、今も雨と水滴が滴り落ちている。
彼女の方へ視線を戻し、その姿をもう一度見てみると、その美しいガラス細工のような透明感のある身体のあちこちに細かな砂や、海泥の汚れが見て取れた。
本当なら人目のある場所へ運んだほうが良いとは思ったのですが、多くの人目に我が身を晒すのは怖かったのです、と最後にそう付け加える彼女の言葉にエドルの胸中に熱いものがこみ上げてくる。
「・・・そう言えば、まだ名前を言っていなかったな。俺の名前はエドル。その、良ければ、貴方の名前を教えてもらえないだろうか?」
目の前の彼女が貴婦人を思わせる姿をしているからだろうか。エドルはらしくないと自身で思いつつも、出来る限りの丁寧な言葉を紡ぐ。
『エドル様・・・とおっしゃるのですね・・・。私の名前はレーネリアと言います。気軽にレーネと呼んでください』
「あ、ああ。じゃあ、レーネ」
名前を呼んだだけだと言うのにエドルはたまらず目を逸らしてしまう。
実際、エドルの女性と接する経験が乏しい訳ではない。その粗暴そうな印象を与えかねないが、逞しい身体にその相貌も相まってポートリアに住む女性達からは人気があると言っていいだろう。しかし、ポートリアの女性は簡単に言うと野性味溢れるタイプであり、そのためエドルには目の前に佇むレーネリアのような可憐、上品と言った言葉が似合う女性に対しての免疫が無いのだ。
『あの・・・、エドル様?先程から身を擦っていらっしゃいますが、それほどまでに寒気が・・・』
「ああ、ひどくてな。その上、濡れた身体にこの気温は少々堪える」
どうやら既に陽は暮れてしまっているらしく、岩の天井の割れ目から覗く空模様は依然として暗いままだが、エドルが家を出た際のものよりも一層暗い色になっていた。
『身が冷えるのは大変でしょう・・・。そうだ、良い物がありますよ』
レーネリアのその黄玉色の触覚がピコピコと震える。こうして見ると犬猫の耳のように見えてとても可愛らしい。
洞窟内に転がる幾つかの大岩の一つへと向かうと、彼女はその岩の影から一つのガラスのボトルを取り出し、こちらへ持ってきた。
『あの・・・、これは魔界の葡萄で作った赤ワインでして・・・。その、実はこれを飲む為に陸の方へと来てたのです・・・』
悪い事をしてる訳ではないのに、恥ずかしさ故かレーネリアの声は次第にか細くなり、最後の方は波の音に消え入りそうなほど小さい。
赤ワインは多少ではあるが、身体を温めると聞いたことがある。だが、気になるのは何故わざわざワインを飲む為だけに本来海中にて暮らすレーネリアが陸へ上がろうとするのだろうか。
その疑問は瞬く間に氷
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