「暑い!いや熱い!」
玄関をくぐるなり、男は叫んだ。
「ついこの間までぽかぽかと温かく、日向でぼんやりしていたらうたた寝しそうなほどだったのに、今はどうだ!」
履物を脱ぎ捨て、帯を緩めながら彼は家の中を進んでいく。
「日の光の下を歩けば滝のように汗が吹き出し、『泳いでこられたのですか?』と問いかけられてもおかしくない!」
緩めた帯を脱ぎ捨て、着物を一枚、また一枚と放り出しながら彼は進む。
「四月から僅か四ヶ月でこの気温!もう四ヶ月経ったらどうなってしまうんだ!」
ついにふんどし一丁になると、男は屋敷の一番奥、地下へと続く階段を降り始めた。
「おそらく、餅はついた側から焼き餅になり、正月は暑さに尻尾を撒いて逃げ帰り、雪は夜更け過ぎに兄へと変わるだろう!」
一通りまくしたてると、最期の三段を飛び下りて床に降り立ち、彼は目の前の扉を押し開いた。
「ただ今戻りました!」
扉の奥からあふれ出した冷気を浴びながら、男は地下の一室の奥に向けて声を上げた。
「お帰りなさい…」
「聞いてよ!暑い、いや熱いん…」
「あなたが玄関潜ったところから聞いていました。それより、戸を閉めてください」
「はい」
男は部屋の奥からの声に静かに応えると、扉を閉めた。
流れ出て行く冷気が押しとどめられ、湿り気を帯びた冷気が彼を包んでいく。
そして、部屋の奥で火打石を打ち合わせる音が響き、ぼんやりと明かりがともった。
蝋燭の火に照らし出されたのは、四畳半ほどの狭い部屋と、ちゃぶ台座布団などの最低限の家具、そして男の方を向いて座る、薄手の着物を纏った女だった。
長い銀色の髪を一つにまとめてうなじを晒している彼女は、どこか青みを帯びた、白い肌をしていた。
青白い肌に銀色の髪は、部屋の冷気と相まって男に涼しさをもたらす。
「はあ、やっと人心地がついた…」
ちゃぶ台の側に置かれた座布団に腰を下ろしながら、男はほっと息をついた。
この部屋がこんなに涼しいのは、日の差さない地下にある為だけではない。目の前にいる彼女が、ゆきおんなだからだ。
「それで、今日はいつもよりずっと暑かったけど、どうだった?」
「ええ、おかげさまで特に変わりありません」
蝋燭の火を挟んで、彼女は男に向けてにっこりほほ笑んだ。
「屋敷がふもとまで滑り落ちた時は、どうなることかと思いましたが…」
「意外とどうにかなっただろう」
男はそう、彼女に向けて笑った。
男とゆきおんなが出会ったのは、昨年のことだった。
色々あって家を追い出された男が、自暴自棄になって悪態をつきながら、雪の積もる村の裏山へと登って行き、道に迷っていたところを彼女に助けられたのだ。
ゆきおんなは山奥の、彼女だけが暮らしている屋敷へと男を案内し、食事と寝床をよういしてやった。
冬場は完全に道が閉ざされる山奥で、一つ屋根の下男女が二人。男が命の恩人がゆきおんなだということを知りながらも、二人が深い仲になるのに時間はそうかからなかった。
本来ならば、二人は山奥の屋敷で末永く幸せに暮らしました、と話は締めくくられるのだろうが、違った。
やがて年が明け、節分が過ぎ、雪が解け始める。そしてふきのとうが雪の下から顔を覗かせはじめるころ、とんでもないことが起こった。
屋敷が、丸ごと山の斜面を滑り降りたのだ。
元より地盤の弱い土地に建てられた屋敷だったが、これまでゆきおんな一人が暮らしていたためぎりぎりのところで踏みとどまっていた。そして冬場は地面が固く凍りついていたおかげで、男が暮らすようになっても踏みとどまっていた。
だが、雪解けの到来とともに地盤は屋敷を支えきれなくなり、ついに滑り降りたのだ。
タンスが倒れ、茶碗が畳の上に転げ落ち、家具が震えながら転げる。突然の大きな揺れに、男はとっさに雪女に覆い被さり、必死に彼女を守ろうとした。
やがて揺れが止まり、二人がほっと胸を撫で下ろすと、二人は外の光景に驚いた。
屋敷が滑り降りた先は、かつて男が住んでいた村の外れだったからだ。
「一時はやれ引っ越しの手続きやら、親戚へのあいさつ回りで大変だったが、まあどうにかなった」
「私も、ふもとの夏場を耐えられるか不安でしたが、どうにかなりそうですね」
ゆきおんなを夏の暑さから守る為、屋敷の地下に作り上げた部屋で二人は微笑んだ。
最も、この一室を作り上げるために、屋敷の滑落で生き残った骨董品は全て売り払ってしまったが、どうにかなっている。
何故なら男には、住む家とゆきおんながいるからだ。
「さて、そろそろ、少し風呂に入って飯の準備をしてこよう」
「すみません、私がこのような体のせいで…」
彼女は立ち上がった男に向け、謝罪の言葉を口にした。
「なに、お前が居なくなることに比べれば、お安い御用さ」
梅雨明け頃、男が帰る前に夕食を作ろうと地下を出た彼女が、暑さに耐えかねて
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