夜、月が照らす麦畑や果樹園、そしていくらかの家屋が点在するばかりの景色に、一つの影が聳えていた。
この辺りの住民が城と呼ぶ、領主の別荘だ。正確には、尖塔を備えた大きな屋敷と言ったところだ。
だが、年に一度訪れるかどうか、という別荘には常に数人の使用人が滞在し、手入れを欠かさないという。
俺は、その城からそそり立つ尖塔の一本を見上げていた。
尖塔には明り取りの穴がいくつかと、てっぺん近くに窓が一つあるばかりだった。
城に小麦を納める知り合いの話によると、あの塔は開かずの塔で、ここ数十年ほど入った者はいないらしい。
だが俺は知っている。夜になると、あの窓から時々美しい女性が外を眺めるのだ。
遠目ではあるものの、月明かりに照らされるゆるく波打つ金色の長い髪も、その整った顔立ちも確かに俺は見た。
最初は幽霊かと思ったが、何度か見るうちに彼女が実在することを俺は確信し、いつしか彼女に対する想いが膨らんできた。
いつからあの塔にいるのか。あの塔でどんな暮らしをしているのか。一人でさびしくは無いのか。
そんな話をしたい。
だが、きっとあの塔にいるのは領主の親類だろうから、俺如きと話どころか会うことすらできないだろう。
それでも彼女に対する欲求は膨れ上がり、こうして塔を見上げるて紛らわせることしかできない。
「ああ、会いたいな…」
今宵はまだ見ぬ彼女の姿を脳裏に描きながら、俺は思わずそうこぼした。
その瞬間だった。
「誰と?」
高く澄んだ声が俺の横から不意に生じ、同時に辺りが冷たくなるのを感じた。
凍えるような寒気に襲われながら、俺が横に顔を向けると、すぐそこに一人の女が立っていた。
肩口ほどで切りそろえた青白い髪の毛の、ぞっとするほど美しい顔立ちの女だ。
ただ、下着に直接上着を羽織ったような格好をしており、その背中からは蝙蝠めいた羽が広がっていた。
魔物だ。それもかなり高位の。
彼女の正体に思い至ると同時に、俺は辺りの冷気が気温によるものではなく、彼女自身の発する気配であることを悟った。
「誰と、会いたいの?」
凍りつくような気配の中、彼女の唇が艶めかしく動き、言葉を紡ぎ出した。
質問だというのは分かっているが、答えるよりもその唇に俺の目は釘づけになっていた。
答えを紡ぐよりも、数歩歩んでその唇に吸い付く方が数倍はたやすいのではないか、そんな気がしてくる。
だが、魔物の放つ色香は、毒花の放つ甘い香りだという。下手にふらふらと近寄れば、喰いつかれるかもしれない。
そうなれば、名も知らぬ彼女と言葉を交わすどころか、もう見ることすらできなくなる。
魔物への恐怖感と、彼女への想いを胸に、俺は前へ進みそうになる足を押さえつけ、口を開いた。
「あ、あの塔にいる、女の人です…!」
「……そう…」
彼女が残念そうにそう呟くと同時に、肌に刺さるような冷気が消え去った。
同時に、彼女の纏っていた妖艶な気配が潮を引くように薄まる。
「うーん、好きな人がいるんなら仕方ないわねえ…」
後に取り残された女性が、やれやれとばかりに顔を左右に振った。
「あーあ、多少いい感じだと思ってたんだけど、また外れか…」
彼女はそう訳の分からないことを呟くと、くるりと背を向けた。
するとその蝙蝠のような翼が広がり、ふわりと彼女が宙に浮かんだ。
「邪魔して悪かったわね。縁があったらまた」
「ま、待ってください!」
そのまま飛んで行こうとする彼女に向かって、俺は思わず声を掛けていた。
「何?」
「あの、飛べるんですよね!?」
「え?あー…まあ、見れば分かると思うけど…」
宙に浮いたまま、彼女は若干の戸惑いを滲ませながら答えた。
「だったらお願いがあるんです。今から用意しますから、手紙を、どうかあの塔の窓に届けてください!」
「今から…?」
俺の申し出に、彼女は塔を見上げてから、再び視線を俺に向けた。若干皺の寄った眉間からは、面倒そうだという感情が滲んでいた。
「急ぎますから!すぐに準備しますから、少し待って届けてください!どうか!どうか!」
「うーん…」
俺の頼み込む声に、彼女はしばし呻いた。
そして、ふと思いついたように彼女が手を打つ。
「ねえ、手紙だけでいいの?」
そう彼女が問いかけた。
紙の上に文字を書き綴り終えると、僕はペンを置いた。
窓から差し込む月明かりの他には何も光は無いが、問題は無い。ヴァンパイアの目には、昼間の室内と変わらぬほど明るい。
僕は人の目には闇と変わらぬ薄明かりの中、今しがたしたためた一日分の、殆ど内容の無い記録を眺める。僅か三行に凝縮された一日だ。
無理もない。今日は一日部屋で過ごしていた。
昨日も、一昨日も、ここを出ることなく過ごしたため、ページをめくっても変わりはない。
時折、五行程度の長い日記が挟まれるが、それもほんの少し外に出た時だけだ。
塔
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