眠りの鍵

窓のない部屋にいた。
三方を本棚に囲まれ、背後にドアのついた扉が一枚だけ存在する一室。部屋の中央に置かれた机に向かい、私は紙にペンを走らせていた。
踊るペンが文章を紡ぎ、内容がひと段落したところで、ペン先が紙を引っ掻く音が止む。
「…ふぅ…」
俺はため息をつくとペンを置き、日記代わりのノートを閉じながら首を左右にひねった。
首筋から、ごりごりと関節の鳴る音が響き、微かな痛みとともに心地よい解放感めいたものが広がる。
もうすでに時刻は夜中過ぎ。一般的には夢の中をさまよう時間だ。
「…そろそろ横になるか」
俺はそう呟くと、立ち上がりつつ机の上の蝋燭立てを手に取り、背後の扉に歩み寄った。
扉を押し開き、夜の闇に沈む廊下に踏み出す。蝋燭の炎に薄ぼんやりと照らし出される廊下には、得体の知れない影が揺れていた。
子供の頃なら身動きが取れなくなるほどの恐怖に襲われていただろうが、今の私にはせいぜい、薄暗さに紛れた家具に足をぶつけないか、という心配しかなかった。
廊下を進み、程なく寝室に至る。俺は扉を押し開くと、ベッドの傍らに置かれたサイドテーブルに蝋燭立てを置き、シーツの隙間に身体を滑り込ませた。そして、枕に頭を置く前に、蝋燭の炎を吹き消す。
瞬間、辺りが漆黒に塗りつぶされた。
闇の中、俺はそっと枕に頭を横たえ、全身の力を抜いた。
そして両目を閉ざす。
壁やカーテンと目蓋。夜を照らしているのであろう星月の光が、家屋と目蓋の二つによって完全に遮られた。
私の体温にシーツが温もりを帯びていく。普通ならば、徐々に体の境界があいまいになり、感覚が鈍って眠りに落ちていくのだろう。
だが、ベッドの中の俺は、目を閉じていながらも意識は明瞭だった。
「……」
楽な姿勢を取り、呼吸をなるべく落ち着け、意識を外界から逸らす。
しかし、風が建物を撫でる音は窓とカーテンを隔てているにも拘らず、俺の耳を容赦なく叩く。身じろぎすれば、シーツの繊維の折り目が手足を撫でまわす。目を閉ざしていると、まぶたの裏にもやもやとした光が宿り、何かを形作っていく。
目が、耳が、肌が、闇の中で鋭敏になり、俺の意識を研ぎ澄ませていく。
意識して重ねるゆっくりした呼吸も、眠るためのそれではなく、あえて自分を落ち着かせるための物に代わっていくようだった。
「……」
シーツの中、寝返りを打てば、衣服や寝具の布地が肌を擦っていく感覚が乱舞する。
衣擦れの音が耳に障る。
何も見えないはずの闇が蠢動する。
意識が研ぎ澄まされ、感覚が鋭敏になり、眠りから遠のいていくのが分かる。
疲労感はあったものの、元より眠気は無かった。だが、私は辛抱強く、シーツの中で目を閉ざし、闇を見つめていた。
余計なことを考えないよう思考を止めたまま、幾度か寝返りを打ち、眠りの訪れを待ち続ける。
しかし、やがて私の耳を打ち始めた小鳥のさえずりに、私は朝の訪れを悟った。
目蓋越しに淡く差し込む光に、目を開いた。カーテンが朝日をぼんやりと透かしている。
また、一睡もできなかった。
「……」
ため息をつきながら私はベッドに身を起こした。



私が眠れなくなったのは、新ダーツェニカに引っ越してしばらくしてからだった。
以前の経験を生かし、私は新ダーツェニカで記録官の職に就いた。役場に提出される各種書類や事務処理の結果を記録する仕事だ。
以前に住んでいた場所では、俺一人でも前日の書類を片付けることができたが、新ダーツェニカでは十数人の記録官が一日がかりで挑んで、ようやく片付くかどうかだった。
以前とは比べ物にならない集中力と労力を費やすうち、俺はいつしか眠れなくなってしまった。
ホットミルクを飲んでからベッドに入っても、風呂に入ってからだから横になっても、目がいつまでも冴えており、眠気のねの字すら生じないのだ。一度はわざわざ二日休みを取り、一日かけて町中走り回って体を疲労させたが、横になってからじわじわと発生する筋肉痛以外生じた物は無かった。
また、眠気が生じないというと羨ましがる人もいるが、疲労は蓄積されていくのだ。だから、肉体の疲労を癒す為にもベッドでじっとする必要はあるし、精神的な疲労が積もり積もって、月に一度ぐらいの頻度で失神してしまうこともある。
その失神している間だけが、俺にとっての睡眠時間だった。精神をすり減らしきった先に存在する、丸一日ほどの意識の喪失こそが、私にとっての安らぎの時間だった。
洗面台に向かい、顔を洗って一晩分の垢を落とし、髭を剃る。タオルで水を拭って鏡を覗けば、慣れ親しんだ顔が映っていた。隈の浮かぶ落ちくぼんだ目に、こけた頬。穴のように黒々とした瞳は、どこか乾いているようにも見える。
いつも通りの、寝不足の目だ。問題ない。
私はタオルをタオル掛けにひっかけると、洗面所を出た。微かな浮遊感が足をふらつかせ
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