反実の稀滴

住宅街の一角に、その屋敷はあった。
高い塀に、大きな門に、広い庭。檻状の紋の向こう、枯れ木と彼草の並ぶ庭を隔てた先に、黒い屋敷が蹲っていた。
石組の外壁は本来ならば黒くはないのだろうが、長年手入れされていない上、庭の雰囲気と相まって、元からそうだったような様相を醸し出していた。
碌に手入れもされていない庭を進み、恐らく数年は開いていないと思われる正面玄関を抜けると、すぐそこは居間になっていた。
絨毯の上に一組の一人用ソファとテーブルが置かれ、その傍らには本が積まれており、壁には本棚が並べられている。
ベッド以外の大体の家具が揃えられた居間は、完全に誰かをもてなすためのものではなかった。
そして、屋敷の主はソファに腰掛け、火のはいっていない暖炉に向かいながら本を広げていた。
「……」
ソファに腰かけていた、短い金髪の少女がページを踊る文字列から目を離し、暖炉の上に掛けられた時計に視線を向けた。
昼の十二時、少し前。
3月31日の、何の変哲もない昼前だった。
時刻的には昼食前だが、朝食の後からずっと本を読んでいたためか、特に腹も減っていない。使い魔に食事の準備をさせるのは、もう少し後でもいいだろう。
そんなことを考えながら、彼女が視線を本に落とした瞬間、突然目の前が真っ暗になった。
「っ!?」
突然失明してしまったのか、と彼女が実を強張らせた瞬間、暗くなったのと同じぐらい唐突に視界が戻った。
身の安全の確保のため、微動だにしなかったおかげで視界に変化はなかった。
とりあえず胸を撫で下ろした瞬間、傍らから声が届いた。
「アンダースノゥ師」
「ひっ!」
意識の外からの呼び声に、彼女は文字通りソファから飛び上がった。
「ああ、そう驚かないでください、アンダースノゥ師」
ソファから立ち上がり、体ごと傍らに向き直る彼女の視界に、空いていたはずのもう一客のソファに腰を下ろす人影が映った。
黒いローブを纏い、膝の上に三角形の帽子を乗せた、黒髪の十代半ばほどの少女だった。だが、それは外見だけの話であり、その中身が十代の少女そのままではないことを館の主、エリカ・アンダースノゥは知っていた。
エリカと目の前の女はともに、世界の影に潜む魔術組織、サバトに属する魔女なのだ。
サバトの所属者は魔術の知識を得ることができ、彼女のように外見を若いまま維持したりできる。よって、二人とも十代半ばに見えても、本当はいくつかは分からないのだ。
「さて、アンダースノゥ師」
ソファに腰掛けた黒髪の女が、ニコニコと微笑みながらエリカに話しかける。
「本日は3月31日、年度末です。昨日までの時点で、今年度分のノルマをまだ満了されていないようですので、確認に参りました」
黒髪の彼女の言葉に、エリカの表情が一瞬引き攣る。
「ちなみに、現時点での未満了ノルマは…『熱帯雨林の5平方キロメートル縮小』『近隣国家間の関係緊張化』…」
特に何も見ず、黒髪はつらつらとエリカの『ノルマ』を並べて行った。
「『所属国家の平均気温の0.2度上昇』…以上が、昨日時点での貴女のノルマです。現在どの程度進行していますか?」
「え、ええまあ、はい!いい感じです!」
頬の引き攣りを押さえ込みながら、彼女は笑顔で答えた。
「ぎりぎりまで準備を進めたせいで、まだ結果は出ていないのですが、どれもこれも今年度中に決着がつく予定です」
「そうですか、それは良かった」
黒髪の魔女は、にっこりとほほ笑みながら続けた。
「貴女と私の所属する部署は、『世間に不安を与え、よりどころを求める人間を増やし、サバトの加入者増加に繋げる』という重要な目標があります。全員が一丸となって、世界が滅ばない程度の不安と災厄を作らなければならないのです。だというのにノルマもこなせない者がいては…」
やれやれ、とばかりに頭を振る黒髪の魔女に、エリカは指を握り締めて体の震えを押さえ込んでいた。
「さて、少々無駄口が過ぎたようですね。これから他に回らねばならない場所があるので、今日のところは失礼します。ノルマの満了、期待していますよ」
黒髪の魔女は膝の上に乗せていた帽子をかぶりながらそう言うと、エリカに向けて軽く手を振った。
すると再びエリカの視界が一瞬真っ暗になり、明るくなると黒髪魔女の姿は消えていた。
「……ユーキ!」
数秒魔女の腰かけていたソファを睨みつけたエリカは、不意に声を上げた。
「は、はいマスター!」
距離によって少しだけ小さくなった高い声が響くと、遅れて居間へと続く扉の一つが開き、少年が一人姿を現した。
「何の御用ですか?お食事でしたら、もう少し待って下さい」
「今日は昼食はいらん。夕食もだ」
広げたままだった本を閉じながら、エリカは続けた。
「つい先ほど、サバトの上級魔女の一人が来た。私に課せられたノルマの確認にだ」
「はぁ…」

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