小さき者のささやかなる願い

プロローグ
エヴァンズという男を一言で言うならば、ろくでなしが最も相応しいであろう。
彼は大陸南東部の漁村の生まれで、父から相続した漁船を一隻所有している。
だが、彼はろくに漁に出ず、仲間と酒を飲み博打に興じていた。
無論、そんな生活を続けていればすぐに金はなくなってしまうが、彼には秘策があった。
それは漁村の近くにある、呪いの入り江へ漁に出ることだった。
常に不気味な色の雲がかかり、海水も異様な色に濁った呪いの入り江は、いわゆる魔界化した土地である。
だが、入り江の入り口近辺で獲れる魚は魔力を蓄えこんでおり、街に持っていけば非常に高値で売りさばけるのだ。
彼は金がなくなるたびに仲間を誘って船を出し、呪いの入り江へ漁をしに行くのであった。

そして今、エヴァンズは入り江の真上で渦巻く不気味な色の雲から少しでも離れるべく、懸命に船を漕いでいた。
慣れぬ作業のせいで、掌に出来た豆が潰れて血が滲み、櫂にしみこんでいる。
かなりの痛みを彼は覚えていたが、彼は掌からの痛みを無視し、全力で舟を漕ぎ続けている。
「天に座します我らが主神よ、どうかオレを助けて下さい・・・」
彼の口からは、若干うろ覚えと言った様子の主神に対する祈りが、繰り返し繰り返し紡がれている。
しかしその祈りに込められた彼の信仰心は、敬虔な信徒のそれを上回るほどだ。
無理もない、彼は今魔物に追われているのだから。
「天に座します我らが主神よ・・・ひ!?」
懸命に船を勧める彼の目に、水面下を進むいくつかの影が目に入った。
魔物だ。
エヴァンズを追って、入り江から出てきたのだ。
やはり、欲を掻いて入り江の中に入ったのがまずかったのだ。
「神さま・・・!」
彼はそう小さく叫ぶと、疲労により鈍い痛みを覚えつつある全身を叱咤し、舟を漕ぐペースを速めた。
(追いつかれたら、捕まってしまう・・・!)
ほんの数分前、入り江の中で網を引き上げていたら網ごと海中へ引きずりこまれた友人のように。
彼を助けようと濁った海に差し伸べた手をつかまれ、引きずり込まれた友人のように。
エヴァンズは、二人の友人のようにならないため、懸命に櫂を操った。
だが漕げども漕げども、渦巻く雲と濁った海水からは離れる様子がない。
一方、海水面下を行く幾つもの影は、彼との距離を詰めつつあった。
やがて、影が船に追いつく。
「ひぃ・・・!」
影の群れが左右に割れ、船を取り囲み、ぐるぐると円を描く。
そして船を中心に回る影の一つが海面を突き破り、船の縁から姿を現した。
右舷の船尾側、エヴァンズから見て左手に現れたのは、一見すると波打つ黒髪の女だった。
だが彼女の肌も青く、両耳も長く尖っており、青黒い髪の間からは角のようにも見える突起が覗いていた。
加えて、船の縁を掴む手は肘まで細かな鱗に覆われており、指の間には薄い膜が張っている。
エヴァンズは濡れた髪を顔に張り付かせながらも微笑む彼女がネレイスだと言うことを知らなかったが、それでも彼女が魔物であることは人目で理解した。
「うふ、うふふふふ」
髪の間からぎらぎらと光る目を覗かせ、口の端を吊り上げながら、ネレイスが彼に手を伸ばす。
「うわぁぁぁぁ!!」
エヴァンズは大声で叫ぶと、とっさに近づく彼女の手を払おうと、右手を振った。
指が白くなるほどの力で、櫂を握り締めたままで、だ。

ごづ

重い音と手ごたえが彼の手に伝わり、ネレイスの体がゆっくり傾いていく。
そして、大きな水音を立てながら、彼女の体が海中に没した。
「あ・・・?」
海中に消えていった魔物の姿を、彼は何が起こったのかわからない、と言った様子で見送った。
だが、彼が自分が何をしたのか理解した直後、恐怖と絶望に彩られていた彼の表情に、なんとしても生き延びようというぎらつきが宿る。
偶然とはいえ、魔物を一匹倒したのだ。
「き、来やがれってんだ魔物ども!」
左手で握っていた櫂を船に引き上げると、船を中心に回遊する影たちに向けて、彼は声を上げた。
直後、恐らくは偶然だろうがその声に応えるように、影の幾つかが船の縁に手をかける。
「く・・・ぉの!!」
数本の鱗に包まれた青い手に、一瞬彼の闘志が萎えるが、大声を張り上げながら彼は櫂を振り回した。
櫂の先端が、船の縁を掴む手を打ち据え、海面を突き破って現れる頭を叩きのめす。
ネレイスの手が、頭が、衝撃と手ごたえに海中へ消えていった。
しかし、そんなエヴァンズの活躍も、長くは続かなかった。
身を乗り出し、海中から僅かに覗く青黒い黒髪を打ちのめそうと振り下ろした櫂が、海中から伸びた手に捉われたのだ。
ネレイスの細腕が織り成す力に、櫂が動かなくなる。
そして海中から現れた新たな指が、櫂の柄を掴んだ。
「ぐ!?クソ!」
押しても引いても動かぬ櫂に彼はそう吐き捨てると、指を緩めた。
櫂の柄
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