(129)リッチ

 夜。人里から少し離れた廃墟があった。だが、地面に接するような空気抜きの穴から明かりがこぼれていた。地下室に、明かりを必要とする誰かがいるのだ。
 周囲の草むらからさまよい出たネズミが、空気抜きの穴に近づく。するとネズミの耳に、人の声が届いた。
「このように大気中の導魔力路さえ確立していれば、直接接触なくとも魔力の伝達は可能である。導魔力路の媒介としては、匂いを構成する微粉、視線による大気変質などが挙げられる。高位の魔物に接近するだけで魔力の影響を受けるというのは、この匂いと視線に依るところが多い」
 滔々と流れるように何かを説明する声だ。声に紛れて時折ひっかく様な音が混ざる。声の主とは別に、紙にペンを走らせている誰かがいる。 ネズミは鼻を鳴らしながら、空気抜きの穴に身を滑り込ませていった。人がいるなら食べ物もあるかもしれない。思考と言うにはほど遠い、飢えと危険を天秤に掛けた上での判断だった。
「しかし魔王の魔力については不明なところが多い。導魔力路が観測できないにも関わらず、世界各地に影響を及ぼしているからだ。魔力が物理と精神に影響を及ぼすが、魔力の伝搬についてはまだ未知の部分が多い。もしかしたら我々の個々の精神は、物理的な距離をものともしないほど『近い』のかもしれない。あるいは、魔力は物理と精神とは別の、第三の軸でしか表現できない何らかの媒介によっても伝搬するのかもしれない。そして、その伝搬についてだが…」
 声が不意に止まり、ため息が挟まれる。
「どうする、続けるか?」
「え、ええーと…その…」
「では、物理伝搬の実例を見るがいい」
 ネズミが空気抜きの穴から地下室に身を出した瞬間、何かがその灰色の体毛に触れた。
「ヂュイッ!?」
 一瞬鳴き声が漏れた直後、全身がぴくりとも動かなくなる。
「これが、物理伝搬だ」
 石組の床をイスが擦る音が響き、妙に軽い足音が近づいてきた。
「魔力で作り出した風の塊に、魔力で記述した術式を織り込む。風の塊が接触することで、術式が流入するのだ」
 ことん、と石組の床に何かが置かれ、みしりと木の擦れる音が響いた。そして、空気抜きの穴の縁で完全に硬直していたネズミを、小さな手が拾い上げた。
「見ろ、麻痺の術式が効いている」
 ネズミを握っているのは、妙に青白い肌をした少女だった。まだまだ子供と言っていいほど幼い顔立ちだが、その表情は妙に冷めた、大人びたものだった。
 彼女はネズミを手にしたまま踏み台を降りると、すたすたと地下室の中央へ歩いていった。そしてテーブルを挟むように置かれた二脚のイスの内、背の低い方へよじ登るようにして座った。
「麻痺の術式の基本構成はわかるな?」
「は、はい」
 少女の問いかけに、テーブルの向かいに腰を下ろした青年が頷いた。
「書いてみろ」
「えーと…」
 青年は、外見的には10ほどは下であろう少女の命じるままに、広げていたノートにペンを走らせた。丸と曲線、直線が二本。そして一繋がりになったいくつかの文字を書き加えて、青年のペンはノートから離れた。
「ふむ…まあいい」
 少女はノートに記された奇妙な模様をざっと見ると、その何カ所かをつついた。
「こことここを抵抗路に書き換え、ここの誘導魔力式を55にすると、どうなる?」
「えー、活性化?」
「そうだ」
 彼女は頷くと、続ける。
「麻痺とは逆の効能がもたらされる。体内で毒物を合成する事もできるし、発火や凍結も思いのままだ」
「でも、発火ぐらいならこう、火の玉の魔法を使った方が早いんじゃ?」
「それでは効果が丸分かりであろう。発火の術式には鎮火の術式、凍結の術式には発熱の術式で対抗される」
 青年の言葉に、少女はそう返した。
「そもそも、効能を隠さねばならない理由というのが…うむ」
 言葉を続けようとして、彼女はテーブルの上に置かれた砂時計が、ひとつまみほどを残してほぼ落ちきっていることに気が付いた。
「続きは明日にしよう」
 彼女の一言の直後、砂時計の砂が流れ落ちた。
「ありがとうございました」
「うむ」
 青年が頭を下げ、少女が軽く頷く。
「では、後は片づけておいてくれ」
「はい」
「それと、明日の準備は?」
「できてます。後は出かけるだけです」
「そうか」
 青年と言葉を交わし、いくつか確認をすると、彼女は椅子を降りた。
「では、先に休む」
「おやすみなさい、師匠」
 青年の言葉を背に、彼女は地下室を出ていった。
 廊下は薄暗かったが、彼女が指を軽く立てるとその先に光が宿り、あたりを照らした。指先の光を頼りに廊下を進み、一階へと階段を上がる。そして通路を抜けて広間にでると、彼女は足を止めた。
「……」
 少女は無言のまま指先の光を掲げながら壁の一角を見上げた。そこには額縁に納められた一枚の絵が掛けられていた。
 椅子に
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