(128)マンティコア

 夜の森の中、開けた空き地に少年が一人立っていた。軽装鎧を身につけ、手には剣を握った少年だ。肩を上下させながら、あちこちに視線をさまよわせている。
「はぁ、はぁ、はぁ…」
 彼の目に映るのは、消えかけたたき火に倒れたテント、そして散らばった彼の荷物だった。
「はぁ、はぁ…」
 たき火のほかに明かりはなく、かろうじて見える木々の合間で影が揺れている。揺れる炎が影を動かし、そよぐ風が微かな音を奏でる。ただそれだけで少年には、自身の周りに何十もの気配が身を潜め、こちらの隙をうかがっているかのように感じられた。
 もちろん錯覚だ。実際に身を潜めているのは、一体にすぎない。
「はぁ、はぁ、はぁ…」
 ほんのつい先ほど、夕食をとって眠ろうかとしていたところで、何者かが彼を襲ったのだ。とっさにテントを飛び出すと、何者かは荷物をひっくり返してから木々の間に飛び込んでいった。そして彼はこうして、次の一撃に備えて身構えているのだった。
「はぁ、はぁ、はぁ…」
 喉が渇く。手に汗がにじむ。全身が震える。
 逃げたい。帰りたい。そんな思いが彼を襲う。だが、少年の軽装鎧の胸部に掲げられた紋章は、それを許さないだろう。勇敢で有能な騎士に授与される一ツ星銀紋章。国が、王が、そして教団と主神が彼を認めたという証だ。たとえその紋章が、一定の訓練課程を修了した者全てに与えられるとしても、彼のうちから逃げ出すという選択肢は消えていた。
「こ、こい…!」
 一ツ星銀紋章を授与式の様子を思いだし、彼は心を奮い立たせた。
 すると、彼の奮起に応じるように、張り出した木々の枝の間から、影が一つ地面へと降り立った。
「っ…!?」
 たき火の揺れる光に照らされた『敵』の姿に、少年の心臓は口から飛び出しかねないほど大きく打った。
 木々を背にたつのは、どこか野生的な印象を与える、二十歳ほどの女だった。しかしその両手両足は、獅子や虎を思わせる猛獣の四肢を形作っており、彼女の腰からは蛇のようなモノが垂れ下がっていた。いや、蛇ではない。尻尾だ。先端に棘を生やした膨らみのある尻尾を、彼女は備えていた。
「ま、マンティコア…」
 目の前の女の特徴から、少年はその種族に思い至っていた。人面獣身の人喰い魔獣として恐れられる魔物だ。座学の一環で見せられた昔の図鑑では、紳士然とした穏やかな顔立ちの男のマンティコアが描かれていたが、口内にこれでもかとばかりに詰め込まれた牙は少年に恐怖を抱かせるに十分だった。だが、今相対しているマンティコアは、整った顔立ちの女のため、いくらか恐怖が紛れた。
「いけない…!」
 少年は剣を握りなおしながら自戒した。相手が美人の顔を備えていても、マンティコアであることに変わりはない。慢心が、致命的な過ちにつながると学んだではないか。少年は、小さく頭を振って、脳裏に芽生えていた微かな安堵感を追い払おうとした。
 そして、改めてマンティコアに目を向けると、彼女がすぐ目の前にたっていた。
「え…?」
 音もなく、剣の射程内に、それも手を伸ばす必要がないほどの距離に立っていたマンティコアの姿に、少年は声を漏らしていた。
 直後、彼の両手を衝撃がおそった。そしてしびれが遅れてやってきたところで、少年は近くの木の幹に金属が叩きつけられる音を聞いた。剣だ。握っていた剣が弾きとばされたのだ。
 普段使いのナイフを抜くか、無手で挑むか。少年が逡巡したところで、マンティコアが右足を持ち上げた。肉付きのよい太腿が掲げられ、腰のあたりを覆っていた毛皮の裾が持ち上がる。少年の目が、思わず太腿の曲線をなぞる間に、彼女は少年に向けて蹴りを放った。
 軽装鎧の胸部、一ツ星銀紋章にマンティコアの足裏が打ち込まれ、少年の背部へと衝撃が抜ける。蹴りの勢いは彼の体を地面から浮かし、抵抗する間もなく吹き飛ばした。そして、空き地の縁に生えていた樹木に、少年は背中から叩きつけられた。
「…っはぁ…!」
 少年は肺から息を絞り出しながら、樹木の根本に崩れ落ちた。
 立たねば。戦わねば。
 しかし少年はナイフを抜いて構えることはおろか、立つことすらできなかった。肘や膝がわずかに曲がり、伸び、地面を軽くひっかくばかりだ。
「うぅぅ…」
 少年がうめきながらなおももがいていると、その目の前に毛皮に包まれた獣の足が降り立った。マンティコアだ。
「うぁ…あぁ…!」
 逃れようとしていたのか、戦おうとしていたのかはわからないが、ただもがく少年のわき腹につま先を差し込むと、マンティコアはひょいと彼の体を裏返した。
「へへへ、なかなかかわいいガキじゃねえか」
 少年を見下ろしながら、マンティコアが口の端をつり上げた。
「オレの縄張りに入り込んだものだから、よっぽど自信があるのかと思ったら…ああ、お前村の連中がよこしたイケニエか?」

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