真っ暗だった。正確に言えば、小さな光の円が暗闇を裂いて地面を照らしていた。とは言うものの、両手で作った丸ほどの大きさの円では、でこぼことした岩と砂ぐらいしか見えなかった。
「ま いにぃち ま いにぃち オレたちゃ ドンゾコ ま いにぃち ま いにぃち あしたも ドンゾコ」
暗闇の中で、男はそう口ずさみながら体の向きを変える。彼の肩ほどに取り付けられた照明が投げる光の円が、その動きにあわせて移動した。新たな岩が円に入ると共に、つい先ほどまで見えていた岩が闇に消えていった。
「ま いにぃち ま いにぃち ここだ あしたも」
男はあたりに岩しかないことを確認すると、移動することにした。足をゆっくりと持ち上げ、少しだけ前方に踏みおろせば、男の足下から砂が舞い上がった。砂は男の照明と地面の間に入ると、光を浴びてきらきらと反射した。しかし男はそんな様子に目を向けるわけでもなく、今度は反対の足を踏み出した。
「どん どんどん ど どどん ゾコ ゾコ」
男は歌いながら足を踏み出し続けた。歌っていないと、自身が消えてしまうような沈黙が襲いかかるからだ。かすかな衣擦れと、男の呼吸のほかにはなにも聞こえないのだ。風のそよぐ音も、せせらぎの音色も、狼の遠吠えも聞こえないのだ。
この、昼でも光の届かないような深海では。
「ま いにぃち ま いにぃち ドンゾコ ゴミどこ?」
男は足を進めながら、歌い続ける。いくつもの金属部品と防水処置の施された皮を組み合わせた全身鎧のような潜水服は、確かに彼を海水か守っていた。しかし、この指二本分の厚みもないような服の外には、沈黙よりも重い海水が満ちているのだ。
大昔に沈んだ輸送船の残骸の探索。潜水服という道具も貸してくれる上に、現場の海域までの送り迎えもあるという破格の待遇だったが、男はなぜこの仕事に人気がないのかを痛いほどに悟っていた。沈黙と、服一枚向こうの死の世界が、じりじりと男を擦り潰していくのだ。
『いいか、最近海に落ちてもマーメイドが助けてくれるから溺れ死ぬことはないって話を知ってるな?』
男の脳裏に、今回の仕事の上司の言葉が浮かんだ。
『確かにそうだが、本当は海で溺れ死ぬことはないから、いつかはマーメイドが助けてくれる、ってことだ』
男は子供の頃、風呂で溺れたことがあった。たったあれだけの水でも、かなり苦しかった。
『それで、今度おまえたちが探索するような深い海には、そうそうマーメイドは現れない。そんな海の底で、潜水服が壊れたら、どうなると思う?』
海に満ちる魔力が、男を生かし続けるだろう。誰かが助けてくれるまで、ずっと溺れながら。
男は、歌いながら残骸を探すことで、どうにか正気を保とうとしていた。しかし、歌詞のネタが切れてしまったためか、彼の口から紡がれるのは「ドンゾコ」に調子をつけたものばかりだった。
もしかしたら、すでに自分は狂っているのかもしれない。
男の胸中に、そんな思いがふと浮かぶ。だが、狂って恐怖が紛れるのならば、男は喜んで狂うだろう。
ほんの少し、彼の潜水服が裂けるだけで、大量の水が流れ込んでくるのだ。彼はしばらくの間は息を止めて堪えるだろう。しかし息苦しさのあまり、体内のわずかな空気を手放し、肺一杯に息を吸おうとするはずだ。だが、彼の肺に流れ込むのは海水だ。気が付いたとしてももう遅い。水は口といわず鼻といわず目といわず耳といわず、ありとあらゆる穴から流れ込み、彼を満たすのだ。そして意識が途切れるまで、鼻の奥や喉を刺し貫くような痛みが襲い続ける。
一度はその身で味わった恐怖と苦痛から逃れられるなら、男は正気など即座に捨て去る。
「えーと…ドンゾコ…あーと…」
節回しも曖昧になり始めたところで、男はふと光の輪の円を何かがかすめたことに気が付いた。黒く先端がとがった何かが、海底から突きだした岩に立てかけられているようだった。
「…!」
男は歌を断ち切ると、体ごと照明を岩場に向けた。しかし光の輪に照らし出されたのは、妙に白っぽい岩と砂ばかりだった。
「なんだ、気のせいか…」
おそらく、岩の影か何かを見間違えたのだろう。そう考え、男が再び探索を再開しようとしたところで、不意に光の円が消えた。砂や岩場が闇の中に消え、一瞬自身が失明してしまったのではないかという思いが、男の脳裏に浮かんだ。
「お、おい何だ!?」
男は声を上げ、闇の中で手を振り回した。全くなにも見えないが、潜水服越しに海水が腕に重く絡む感触はわかる。
「大丈夫、大丈夫だ…」
男は辺りが闇に包まれた瞬間から、一歩も動いていないことを思い出しながら、肩口の照明器具に手を伸ばした。そして、前方を照らすそれにふれると、どうやら何かが覆い被さっていることが、潜水服の分厚い手袋を通じて感じられた。
「な、なんだ
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