chapter 7

 風が頬を撫でる。風が髪をなぶる。風が衣服の裾をはためかせる。
 燦々と日の降り注ぐ青空の下、何隻かの飛行船が空を飛んでいた。悠々とした空中散歩と言った風情だが、ゆっくりと、しかし着実に先頭の一隻が後続の飛行船から距離を離していた。
 膨れ上がった皮袋の下、舵輪を握りしめているのは白髪の女だった。ドレスのスカートがはためくのもかまわず、歯を食いしばり、船首のその先をにらむようにしながら飛行船を操っている。
 彼女は必死だった。だが、追っ手の飛行船との距離を設けているのは、彼女の努力だけではなかった。彼女の傍ら、ドレスに包まれた腰にしがみつく少年が、必死に意識を凝らしていた。
「イヴァン!限界なら休んでいいぞ!」
「もう少し…いける…!」
 腰にしがみつく少年に向けてジェインが声をかけると、彼は絞り出すような声で応じた。飛行船を後押しする風を起こしているのは、少年の生まれ持った力によるものだ。だが、その力もそうそう連続して使い続けられるものではない。だが彼は、瞬間的な強風を吹き起こし、突風の勢いが殺されぬうちに次の風を起こすという、寸断した気象操作で連続的な加速を行っていたのだ。
 だがもちろん、その負担は彼にのしかかっていた。
「う…」
「イヴァン!?」
 少年が漏らしたうめき声に、ジェインが応じる。
「大丈夫か!?」
「だ…大丈夫…!」
 少年は低い声で応じた。
「距離は十分稼いだ!ドゥナルまで余裕だ!」
 彼女は少年を休ませようと、声を張り上げた。
「でも、ドゥナルに到着すればおしまい…じゃないでしょ?」
 少年が、どこかぎこちない笑みを浮かべながら続ける。
「ドゥナルに入って、ギゼティアの家を探さないと…」
「ここでお前が倒れたら、ナムーフの外には出られないぞ1?」
 浮遊都市ナムーフ。天空に浮遊するいくつもの人工の浮島の中で、最も高い位置に浮かぶドゥナル・ポト・ナムーフ。二人がそこを目指しているのは、この浮遊都市から脱出するためだった。
 だが、ここで少年が倒れてしまったら、これまでの二人の行為に意味がなくなってしまう。なぜなら今、ジェインは少年のためだけに、ナムーフの外を目指しているからだった。
「大、丈夫…!」
 少年は幾度目になるかわからない返答をした。実際のところ、すでに通常の限界は迎えている。だが、ジェインとの逃避行を成功させるためにも、少しだけでも距離を稼がなければならないからだ。
 ジェインはこれまで、『仕事』のために少年をナムーフから連れ出そうとしていた。だが、彼女の仕事をする理由になっていた過去の罪が作りものだとわかった今、ジェインはただ少年のためだけにこうして飛行船を操っているのだ。物心ついてから、ずっと浮遊都市の一角に閉じこめられていた少年にとって、外、それも浮遊都市の外はあこがれであった。
 だが今となっては、こうして少年のためだけに努力してくれるジェインの存在が嬉しかった。そして、ジェインの努力が実を結ぶよう、イヴァンも可能な限り助力することを決めていた。
「もうすぐだ…!」
 不意にジェインが声を漏らした。
 前方に目を向けると、遙か上空に浮いていたはずの巨大な浮島が、少し手を伸ばせば届くほどの距離に迫っていた。島の縁から覗く邸宅の屋根が近づいてくる。
「ジェインさん、もう止め…」
「止めるな!このままの勢いだ!」
 連続する突風による加速を止めたイヴァンが、向かい風を起こして飛行船を減速させようとした瞬間、ジェインが吠えるような声を上げた。
「ゆっくり島に降りれば、即座に警備隊員に囲まれる!このままの勢いでつっこんで、どこで降りたか分からないようにする!」
「で、でも…」
「イヴァン!任せろ!」
 風に紛れながらの声で、ジェインがどんな表情を浮かべているかも分からない。だが、少年にとってその一言は、十二分に彼を勇気づけるものだった。
「…分かった!」
 これまでに何度も少年にかけられたその言葉には、幾度か形を変えたこともあったが、常に成功が付き従っていた。ジェインが任せろと言ったなら、少年は彼女にすべてを委ねる。それだけの力が、彼女の言葉にあった。
「行くぞ…!」
 ジェインが舵輪を操ると、飛行船は勢いよく浮島の上空に飛び出し、旋回を始めた。眼下に広がるのは、広い庭を備えたいくつもの邸宅と、その間を走る通りだった。浮島の中央に巨大な城がそびえており、いくつもの住宅が軒を連ね、通りによって区切られていた下の島々とは異なる景色であった。だが、今は景色をぼんやりと眺めている場合ではない。
「ここ…だ…!」
 ジェインは低く呻くように漏らすと、舵輪をつかむ腕に力を込めた。その瞬間、飛行船の船体がきしみをあげつつ、船首を下方へと傾ける。船首の先、左右に邸宅の生け垣や塀の並ぶ通りに着陸を試みるのだ。

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