chapter 2

 ジェインはひときわ強く触手に力を込めると、勢いをつけて壁面から屋上へと飛び降りた。煉瓦を敷き詰めた屋上面で転がりつつも受け身をとると、彼女は姿勢を整えようとした。だが、自身の右足が体を易々と引き上げることはできても、体重の半分を支えるには頼りない、骨格のない触手数本になっていることを思い出した。
「参ったな…」
 腿の半ばほどで裂けたズボンの内からあふれる触手に、ジェインは顔をしかめた。触手の足では立つのは難しいし、そもそも目立ってしまう。顔を空に向けると、少しだけ離れた場所に浮いていた船が、ゆっくりと旋回していた。見晴らしがよいということは、彼女自身もどこからも見えているということだ。酒場で騒ぎを起こした片足が触手の女が、このナムーフに何人いるだろう。
「スカートに履き変えて足を隠して…いや、先にここを離れるか」
 駆け回ることはできなくても、ゆっくり歩くことぐらいはできるだろう。ジェインは触手の先端に未だ引っかかっていた靴を手に取ると、触手同士を絡めあわせて足を作ろうとした。だが、触手同士がぐるぐると螺旋状に絡み合う内、触手は彼女の意志を離れた。ぎちぎちと、触手同士が互いを締め千切らんばかりに巻き付きあっていくのだ。
「お、おっと…」
 力加減を間違えたのかと脱力しようとしたが、触手の動きは止まらない。触手同士が絡み合い、何かを形作っていく。やがて、触手同士の表面が曖昧になり、一瞬の融解を経て、一本の棒へと変じていた。太腿から徐々に細まり、固みを帯びたくびれを経て、緩やかな膨らみの曲線を折れ曲がった先端へとつなげる棒へとだ。棒の先端は平たく広がっており、五つの突起が並んでいた。
 それはどう見ても足だった。
 ジェインにとって馴染みのある足が、そこにあった。
「も、戻った…?」
 足の指に力を込め、握ったり開いたりすると、足はジェインの意志通りに動いて見せた。力を備えながらもぶよぶよと柔らかい肉の触手ではなく、芯に骨格を備えた足だ。ぬめりを帯びた病的な白さの表皮は、彼女の肌色と同じ落ち着いた白になっている。ジェインは一瞬迷ってから、触手がより集まってできた足に触れてみた。だが、彼女の指先に感じるのはぬめりではなく、さらさらとした肌の質感だった。
 触手が足に変化した。いや、足に戻ったというべきか。
「一回だけ…じゃないな」
 指を思い切り広げたところ、再び指先の肌が白く変化するのを見て、彼女は足を触手に変化させる方法を理解した。どうやら力を込めて指を広げれば触手になり、力を込めて触手をより合わせれば足に戻るようだ。
「でも、破れたズボンはそのままだな…」
 ジェインは太腿の半ばから垂れ下がる、ズボンとしての役目を果たせなくなった布切れを引きちぎり、片足だけ半ズボンの状態にした。多少目立つ服装だが、触手を隠しながらよろよろ歩き回るよりかは遙かにましだ。手に持っていた靴を履くと、ジェインは建物の屋上に立った。
 少々無駄な時間を過ごしてしまったかもしれない。すでにこの建物は取り囲まれているだろう。
「さーて、どうしたもんか…」
 酒場で囲まれたときは、彼女がジルを使って足を触手に変えた瞬間の驚きに乗じただけだ。すでにジェインの足がクラーケンであることを知られているならば、先ほどのように上手くはいかないだろう。彼女は通りに沿って並ぶ建物の屋根に目を向けた。
「行ける…な」
 助走をつけての幅跳びなら、十分に隣に移ることはできそうだ。何軒か建物を渡ってから下に降りるとしよう。
 だが、ジェインが屋上の縁から距離をとり、助走の準備運動として軽く足首を回し始めたところで、不意に声が響いた。
『ナムーフ市民諸君!私はロプフェル行政長だ』
 妙に反響を含んだ声に、ジェインはちらりと聞こえてきた方向に目を向けた。近隣の建物の屋上かと思ったが、声の源は屋上より上、青空を背に浮く船から響いていた。
『今日はナムーフ生誕十周年記念祭に集まってくれて感謝している。十年という年月を、ここナムーフで過ごせたのは諸君等の協力あっての物だ』
「そういや挨拶がどうのこうのって言ってたな」
 舞台の上でジルを自在に操って見せた男の言葉を思い返しながら、ジェインは顔を正面に向ける。
『だが、今日という記念すべき日を乱そうとする輩がいる。そう、浸食主義者だ!』
 浸食主義者。酒場でも彼女に向けて投げつけられた言葉だ。
『ナムーフでは我々人類と、魔物たちの共生を目指している。だが浸食主義者は我らの理想を阻み、自らと同じ場所へと引きずり降ろそうとしているのだ!諸君、浸食主義者が許せるか!?』
 熱のこもっていく飛行船からの声に、通りの合間や少し離れた広場から歓声が呼応した。
『そうだ、浸食主義者を許してはならない!浸食主義者の思いのままにさせてはならない!今日という
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