魔物のための秘密の経典

 晴れ渡る青空の下、街があった。定期的に市場が開かれる大通りと、住宅の連なる路地から成る街だった。
 昼日中ということもあってか、街の大通りを多くの人影が行き交っていた。老若男女、街の住民やよそから来た旅行者や商人など、様々だ。そして、人々の中に紛れるように、異様な風体をした影があった。それは、身体を厚手の布で覆い隠していた。羽織ったケープの前を合わせ、フードを深々と被っている。
 身の丈と布越しの肩幅からすると女だろうか。しかし裾が地面につきそうなほど長いケープとフードにより、それ以上の事は推測しようもなかった。
 身体を覆い隠すようなその姿に対し、向けられる視線は二種類あった。一つは驚きと困惑の混ざり合った奇異の視線で、もう一つは特に何の感情もない風景の一部に対するものだった。前者の視線を向けるのは旅行者によるもので、後者はこの街の住人の物だ。
 そう。布を被ったその姿は、街の住民にとって慣れ親しんだ物だったのだ。
 ケープ姿の人物は、大通り沿いに開かれている市場を進み、軒を連ねる露店の一つに近づいて行った。
「おう、いらっしゃい!」
 接近するケープとフードの姿に、露店の店主が積み上げられた野菜越しに声を上げた。
「…こんにちは…」
 フードの下、かろうじて見える整った口元が小さく動き、低い声音で挨拶を返す。
「今日はなんにする?一応こいつと、これが安いよ!」
 店主は根菜と野菜をいくつか手で示しながら、笑顔を彼女に向けた。
「じゃあ、それとこれと…あとこれも下さい…」
「はいよ!」
 店主はケープの下から出てきた袋に、彼女の求めた品物を入れてやると、代金を受け取った。
「毎度アリ!ところで、今日はいつもより多いね?」
「ええ…夫が帰ってくるので…」
「へえ!出稼ぎかい?」
「…まあ…」
 フードから覗く形の良い唇が、どこか嬉しげにその端を釣り上げた。
「だったら、今夜はたっぷりと可愛がってもらわねえとな!」
 店主は、そう冗談めかした調子で言った。他人の夫婦の私生活に踏み込むような発言ではあるが、彼の出身地やこの辺りでは冗談として受け止められるレベルのものだ。そして彼もケープとフード姿の客が、多少恥じらいながらも笑みを浮かべるものだと思っていた。
「……失礼します」
 彼女は口元に浮かべていた笑みを掻き消すと、踵を返して露店の前から離れて行った。
「あ…ま、毎度!また来てくれよ!」
 その風体に最初は驚いた物の、最近ようやく多少言葉を交わせるようになったケープとフードの客。馴染みの客を一人失ってしまった予感に、店主は人通りへと消えていく彼女の後姿に向けて声を張り上げた。しかし、その声に彼女は何の反応も返さなかった。
 彼女は露店を離れると、通り沿いにまっすぐ進み、やがて路地の一本へと入っていった。建物と建物の合間を足早に進み、とある扉の前で足を止めた。
 木製の扉には手のひらほどの大きさの、金属製の紋章が掲げてあった。半ば目蓋を下ろした目の紋章だ。
 彼女はケープの下から手を出すと、扉の取っ手を握り、軽く捻った。扉が薄く開き、彼女はその隙間に身を滑り込ませ、後ろ手に閉めた。
「……」
 扉の前でしばしじっとしながら、彼女は薄暗い室内に目を慣らした。
 天井付近に設けられた明り取りの窓から差し込む日の光が、ゆっくりと室内の様子を照らしていく。彼女の前に有ったのは四脚のベンチと、ベンチと向い合せにおかれた丸椅子、そして丸椅子の背後におかれた、布袋を被せられ麻ひもで縛られた縦長の何かだった。ベンチと丸椅子には既にいくつかの人影が腰を下ろしており、そのいずれも彼女と同じようにケープとフードを纏っていた。
「いらっしゃい、フェイ」
 丸椅子に腰かけていた人物が、戸口に立つ彼女の名を呼んだ。
「そろそろ始めようと思っていたところです。お掛けなさい」
「はい…」
 野菜などを詰めた袋を下げた彼女、フェイは短く答えると、並ぶベンチの一脚に腰を下ろした。
「さて、今日も皆さんよく集まってくださいました」
 丸椅子に腰かけた人物が、ベンチに座る者たちを見回しながら口を開いた。
「この場所にいるのは私達だけです。惑わされるものはここにはいません。フードを外し、顔を見せましょう」
 その一言に呼応するように、全員がケープから手をだし、フードを下ろした。
 布の下から出てきたのはいずれも女の顔だった。だが、髪の間から角を生やした者、耳が人のそれより尖っている者、肌に鱗を備えた者ばかりだった。そしてフェイの金色の髪の間から突き出ているのは、先端が黒く染まった三角形の耳だ。
「それでは、今日のお話を始めたいと思います」
 ベンチに腰を下ろす魔物たちと同じく、丸椅子に腰かけるフードの女がにっこりとほほ笑んだ。



 妖狐のフェイがこの街に流れ着いた
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