(119)グラキエス

ダッハラト山脈の一角、山肌によって雪と風からかろうじて守られている吹き溜まりに、小さな町があった。ダッハラト山脈を越える数少ない道の一本にできた、宿場町だ。
しかし夜毎町をおそう吹雪により、この季節に町を訪れるものなどいない。
「…異常なし」
吹雪に乗って町の上空を舞いながら、私は呟いた。
私はシェス。氷雪の精霊グラキエスで、氷の女王の命によりこの宿場町と、その近辺の監視をしていた。
遭難者の救出はもちろん、雪崩の前兆の発見を行い、いち早く宿場町に伝えるためだ。
だが、今日も何の変わりもなく、吹雪が町の上空で渦巻いていた。私は宿場町に戻ろうと、吹雪の中で体の向きを変えた。
すると小さな音が、私の耳を叩いた気がした。
「…?」
ゴウゴウと耳をなでる風音に紛れそうな小さな音に、私は動きを止めた。まるで、雪を踏みしめるような小さな音だった。だがこんな吹雪の中、歩き回る人間や動物はいないはずだ。
可能性としては、山肌から浮かび上がった雪塊がたてるひび割れの音。つまりは雪崩の前兆だ。
私の体に緊張が走る。
どのあたりの雪がどの方向に崩れるのか。宿場町に被害はあるのか。どのぐらいの余裕があるのか。そして、雪崩が起こるまでに町の人々を避難させられるのか。
私の頭の中で、いくつもの考えが浮かんだ。だが、まず最初にすべきことは、音の源を探ることだ。
耳に意識を集中させると、また音がした。
だが、音の出元は町を囲む山肌ではなく、麓に近い方向だった。あのあたりには人里がないから、雪崩が生じても問題ないだろう。
「とりあえず、町の人には伝えておかないと…」
私が胸をなで下ろした瞬間、ひときわ大きな音が響いた。降り積もった雪の上に何かが落ちるような、人が雪の上に倒れ込むような音。少なくとも、雪崩の前兆の類ではない。
だとすると、これまで私が聞いていたのは本当に人が雪を踏む音で、今し方届いた音は…
「大変…!」
私は風の中で向きを変え、舞う雪氷を全身に浴びながら飛んだ。
徐々に地面が近づき、私は徐々に雪に埋まりつつある足跡と、その先で倒れ伏す人影を見つけた。
「大丈夫!?」
人影の傍らに舞い降りると、私は雪の中から遭難者を助け起こした。
防寒・雪避けの為のすべすべとしたマントを羽織った男で、背中には大きな包みを背負っていた。
「うぅ…」
男が小さく呻く。幸い、息はまだあるようだ。
「もう少しがんばって。今、暖かいところに…」
私は彼を抱えると、吹雪の空に向けて浮かんだ。



宿場町の一角、この季節はほぼ休業している宿屋の一階に私はいた。
遭難者の男は二階の客室で、医者の診察を受けている。
「全く、この季節に珍しいもんだねえ」
宿屋の女将が、お盆を手にやってきた。
「お疲れシェスちゃん、はいお冷や」
「ありがとう…」
差し出されたコップを受け取り、私はその縁に唇をつけた。ひんやりとした水が、私の体に染み込んでいく。
「それで、どんな様子だい?」
「とりあえず、一通り荷物は確かめた」
私はテーブルの上に広げられた、遭難者の男が持っていた荷物を示した。
「衣服や鞄の中身に、特に異常はなかった」
携帯食料に、地図に着替えに財布。衣服は造りはしっかりしてるけどどこでも手に入りそうな旅装束だ。
「でも、これだけがよく分からない」
ただ一つだけ紛れていた品物を、私は手に取った。それは男が背負っていた荷物だった。布をほどいてみると、中から出てきたのは細長い首をはやした楕円形の箱だった。
楕円形の箱は中が空洞で、中程がくびれて8の字の形をしている。箱から伸びる首からは六本の糸が張っていた。
依然宿場町を訪れた吟遊詩人が持っていた竪琴にもにた糸なので、おそらく楽器なのだろう。
「うーん、楽器かしらねえ?」
「それは分かる。ただ、この楽器を持って何をしようとしていたのかが分からない」
この季節、雪でダッハラト山脈が閉ざされるのは太陽が昇る方向より明らかだ。単に山脈の向こうを目指すだけなら、ほかにもルートは存在する。だというのになぜわざわざ山を越えようとしたのか。持ち物から何か分かればと思ったが、楽器の存在はますます謎を深めるばかりだった。
遭難者を助けるという役目は果たしたのだ。次は、この宿場町に災厄が及ばぬよう男を調べなければ。
私はピンと張った弦の一本に指をかけ、軽く弾いてみた。するとビィンという音が響いた。
「うーい、終わった終わった」
ばたん、とドアの開閉する音が響き、医者が階段を降りてきた。
「アラ先生、お疲れさま」
「ああ、疲れた疲れた。これが若い娘さんなら、喜んで診てやったんだがのう」
初老の医者は階段を下りると、まっすぐにカウンター席に着いた。
「はい、どうぞ」
女将は医者にホカホカと湯気の立つ煮込み料理を出した。簡単なものではあるが、この吹雪の中往診しても
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